以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 91 号 (2008.7.18 刊) からの抜粋引用です。

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今回は、「NLP は 2,500 年の伝統がある瞑想法の代替手段となりえるか?」、「北岡式 NLP は修業系か?」、および「なぜ日本では NLP は『革命』的と見なされていないのか?」の情報がカバーされています。

 1) NLP は 2,500 年の伝統がある瞑想法の代替手段となりえるか?

私は、本メルマガの最近の号 (特に、mixi 日記からの引用転載号) で、NLP は、最近の日本人 (特に若者) に欠けている内省、内観の方法として使える、すなわち、NLP には「ヴィパサナ (自己観察) 瞑想」的な要素がある、と主張してきています。

私自身は、1980 年代後半に NLP を研究し始める前に、8 ヶ月間の心理療法 (米国西海岸)、2 年間の催眠学校での催眠の研究 (英国)、禅瞑想、OSHO (バグワン シュリ ラジニーシ) 式の諸瞑想 (「クンダリーニ瞑想」という瞑想中には、実際にクンダリーニ エネルギーが上昇、開花したこともあります) を実際に経験していましたが、その右脳的な体験に基づいて言うと、NLP は、極めて有効な自己観察の方法論として使うことができる、という結論に達しています。

さらに興味深いことは、OSHO 等は、現代社会の人々は、山奥の中で静かに暮らしているわけではないので、日々の喧騒を経験している現代人は、瞑想中にどんどん体を動かした方がいい、ということで、「ダイナミック瞑想」、「クンダリーニ瞑想」をはじめとする「革命的」な動的瞑想を考案しました。

しかしながら、私の、20 年以上の精神世界の修行経験から言うと、座って静かに行う (禅のような) 静的瞑想であっても、体を動かし、ダンスする動的な瞑想であっても、そこから得られる効果は、ほぼ同じものです。

すなわち、静的瞑想と動的瞑想を含む瞑想は、「すべて例外なく」、2,500 年前のインド人哲学者のパタンジャリが著した「ヨガ スートラ」という瞑想法解説書 (この本に対する「メタ解説書」が何冊か出ていますが、ヴィーヴェッカナンダの注釈 (『ラージャ ヨガ』)、アベーダナンダの注釈 (『ヨガ心理学』)、クリストファー イッシャーウッド & プラバーヴァナンダの翻訳 (『神の知り方: パタンジャリのヨガ格言』)等が推奨されます) に基づいていて、その枠の域を出ていない、という結論を私はもっています。

これに反して、「ヨガ スートラ」の方法論とは一見まったく無関係のように見える NLP の方法論に関して言うと、私は、約 20 年前に、7 年間毎日 10 個程度の NLP 演習を自己適用しましたが、当初は、スペーシャル ソーティング (空間並び替え) を使って、実際に体を動かしていましたが、その後頭の中でも同じことができるようになった後、現在は、ある代表的な NLP 演習を頭の中で「瞬時」に行うことで、静的もしくは動的瞑想をたとえば 40 分以上行ったときに得られる効果と同じ効果を達成できるようになっています。(「瞬時」と書きましたが、さらに正確に言うと、「一、二秒以内」です。)

この意味で、私は、個人的には、NLP は、パタンジャリ以降 2,500 年間続いてきている瞑想の伝統に取って代り「うる」方法論であると、確信しています。

この点について強調しておくべきことは、NLP では、すでに経験的に知っていることを (アンカーリング等によって) 再生または再体験できるだけで、「レモンの味を知らない人がいくら NLP をやっても、レモンの味を味わえるようにならない」という致命的な点です。

たとえば、NEW コード NLP は、OLD コード NLP のように行動をアンカーリングするのではなく、ノウナッシグ ステートと言われている状態等をアンカーリングするので、前者の場合は、不幸なロボットが幸福なロボットになるだけである一方で、後者の場合は、アンカーリングされた状態からは、各文脈に応じて「新しい」別個の行動が「生成」されます。

この点について、私が、NLP 共同創始者のグリンダー氏に「では、NLP を通じてまったく新しい行動または状態が生み出されうるのですか (= レモンの味を知らない人が NLP をやって、レモンの味を味わえるようになるのですか)?」と質問したときの同氏の答えは以下のようなものでした。

「NEW コード NLP のノウナッシング ステートでしか生成されない状態もあれば、たとえば、ドラッグ等で化学的に誘発された変性意識状態でしか生成されない状態もあり、それらは必ずしも重ならない。」

ですので、瞑想を充分経験していない場合は、上記の NLP の「革命性」は体感覚的に認識することはできないと思われます。

 2) 北岡式 NLP は修業系か?

上記で、「私は、約 20 年前に、7 年間毎日 10 個程度の NLP 演習を自己適用しましたが、当初は、スペーシャル ソーティング (空間並び替え) を使って、実際に体を動かしていましたが、その後頭の中でも同じことができるようになった後、現在は、ある代表的な NLP 演習を頭の中で『瞬時』に行うことで、静的もしくは動的瞑想をたとえば 40 分以上行ったときに得られる効果と同じ効果を達成できるようになっています」と述べましたが、このことを根拠にして、国内の NLP 市場では「北岡式 NLP は『修行系』で、実践するのが大変だ」というような評価も生まれているということを、耳にしたことがあります。

これは、大いなる誤解だと思います。

私は、2006 年と 2007 年に国内でトレーナーズ トレーニング コースを開催されたグリンダー氏の資料を再検討していますが、この中で、同氏は、「NLP は、練習、練習、練習に継ぐ練習が必須です」という意味のことを言っています。

私には、このような永続的な練習と自己適用することをよしとせず、「怠惰な学習法と即効的な効果」を求めて NLP に興味をもちはじめる NLP ピアが多くいすぎるように思えます。

確かに、NLP ファシリテータは、そのクライアントに対して (たまたま) 「怠惰な学習法と即効的な効果」を与えることはときには不可能でもないと思いますが、ファシリテータ自身が、非常に有能なファシリテータになるために必要な自分自身の技能に関して「怠惰な学習法と即効的な効果」を達成することは不可能に思えます。

ですので、極論を言うと、プラクティショナー コース、マスター プラクティショナー コース、トレーナーズ トレーニング コースを、たとえば、36 日間学んだだけで、トレーナーになることはまず不可能でしょう。

NLP は、グリンダー氏の比喩によれば、ジャグリングのようなもので、ジャグリングに関与している個別のテクニック要素を各々学んだだけではプロのジャグラーになることは不可能で、プロになれるのは、「血が滲むような毎日の練習」を長年続けて、すべての複雑な行動が無意識的に、芸術的に達成できるようになった時点だけです。

以上のことと比べると、私が「7 年間毎日 10 個程度の NLP 演習を自己適用」した事実などは、真の「NLP の精神性」から言えば、ごくごくあたりまえに要求されていることで、「修行系」とはとても呼べないと思います。

この辺に NLP ピアの大いなる勘違いが存在しているのではないでしょうか?

ちなみに、そういう練習も、自己適用も行う用意がない NLP ピアと、NLP の真の革命性を体感的に認識できずに、NLP を単なる「イメージ トレーニング術」等としか見なすことができないでいる NLP ピアは、重なり合うように思えます。

 3) なぜ日本では NLP は「革命」的と見なされていないのか?

この質問は、上述の 2) の項目とも密接に関連していますが、国内外に高質の NLP トレーナーが少ないので、今まで NLP を学んできている日本人の中で、NLP を、単なるイメージ トレーニング系の表面的な変化を生み出す行動変化の方法論ではなく、真の意味での「自己解放」を達成できる (上記でも示唆したように、おそらく人類史上 2,500 年以来はじめて訪れた) 方法論であることを右脳的、体験的に認識している NLP ピアは非常に数少ないであろう、という事実と関係しています。

そういう「奇跡」を自分自身で体験できていないことを理由にして、「日々練習と自己適用をし続ける」といったコミットメントももつことができないので、高質のトレーナーにもなれない、という悪循環が起こっているのだと思います。

欧米でも NLP の評価は、非常に否定的である場合もありますが、一方では少数ながら「奇跡」を引き起こせるトレーナーも存在していますので、ある意味、NLP は (極めて異端でありつつも) 保守本流の位置づけにとどまり続けていることが可能になっていると、私は見ています。

作成 2023/12/27