以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 86 号 (2008.4.19 刊) からの抜粋引用です。

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今回は、「1. 本メルマガ第 85 号に対する読者感想」、「2. 北岡はサハラ砂漠に勝ったのか?」、「3. メタモデルを通じた無意識に関する考察」についてお伝えします。

1. 本メルマガ第 85 号に対する読者感想

ある読者から本メルマガ第 85 号に対する読者感想をいただきました。内容的に痛く感激しましたので、以下に、この方の感想と私の返信メール メッセージの一部を、ご本人の許可をいただいた上で引用させていただきます。

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> 北岡先生 こんにちは
>
> メルマガの感想を書くのは、初めてですが今回感じたことを幾つか、お伝えさ
> せていただきます。

北岡コメント: このようなご丁寧なメールに感謝いたします。

内容的には、非常に「知性的」なメッセージで、このようにちゃんとした形で私を評
価していただけているメールはあまり受信しないので、しごく感銘しています。

> ミルトンモデルのセミナーについて
>
> ミルトンモデルのセミナーは、講習内容的には成功だったようであるということ
> は、メルマガから拝察できました。ただ、
>
> 参加者が少ない=社会が求めていない
>
> という視点については、少々疑問が残ります。
> その理由としては、セミナーの日程が合わなくて参加を断念した人間もいる
> ということです。
> しかし、社会が求めている=仕事やその他諸々の予定を変えてでも参加する
> という前提であるとすれば、北岡先生のおっしゃる通り(社会が求めていない)
> なのかもしれません。

北岡コメント: 市場には、私のメルマガの「隠れ読者」で、私を評価していただけて
いる方々も一定数いらっしゃるとは思いますが、実際に私とコミュニートしていただ
いていないかぎり、私としては特定のしようがないですね。

たとえば、「興味があるのですが、日程が合わないので残念ながら今回のワーク
ショップには参加できません」といったメッセージを私が受け取れるシステムがあっ
たのであれば、私の反応はまったく別のものになっていた可能性もありますね。

実はですね、この私の「封印」 (といっても、封印するのは「エリクソン催眠ワーク
ショップ」だけですし、実は、例外的に 5 月初めに大阪でもう一度だけ行うことに
なっています) の理由は、12 月の北岡マインドワーク「無意識ワークショップ」の
際も、思った以上の参加人数が確保されていなかったので、「次回はがんばりま
しょう。30 名は集めましょう」といった条件が、主催者との間で決まっていました。私
が、ワークショップの途中で、(私の期待通りでしたが) 実際に参加者が「事の重大
性 = ワークのすごさ」にわかりつつあることが判明した時点で、そのような経緯か
ら「封印」を決めたわけです。

しかしながら、今後 30 名、50 名程度の参加者の前で行えるのであれば、同じト
ピックのワークショップを開講することにはやぶさかではないです。

> 北岡先生が到達されたView Pointを、後に続くものが追う機会を失うこ
> とはとても残念なことです。
>
> 同じ視点に立つまでには、やはり北岡先生と同じ過程を経なければならないで
> しょうし、後学者がそこにまで辿り着けるかは、甚だ疑問であります。
> (それは全ての経験・信念などを、完全にコピーすることは不可能である為)

北岡コメント: というか、私の「物まね」をする必要などまったくないし、むしろ愚
行ですね。私が求めるとしたら (何をやるかの詳細はどうでもいいのですが)、
私が若い頃からもっていた「死ぬ気で何かを求めようとする」コミットメントだけ
ですね。(私としては、若い頃から、首尾一貫して「自分の人生をかけてもいい」
ものを探し続けてきました。この「コミットメント」がすべてだと思います。)

そのようなコミットメント (意気込み) があれば、私を超えることなど比較的簡単
だと思うし、もし万一私のワークがすごいというのであれば、私を超える人がどん
どん増えることだけを願いますね。

このことについては、レオナルド・ダヴィンチはかつて「自分自身の師匠を超えるこ
とのできない弟子は『できの悪い弟子』である」と言ったそうですね。私もまったく
同感です。さもないと、論理的に、人間意識の進化はありえないですよ。

> 人類の用いる言葉の技術および、内的・外的体験の操作(?)が、ここまで発展し
> たという証拠としても、後世に残しおいてはいかがでしょうか? (具体的には書籍
> などで)
>
> もちろん、北岡先生が教えてやってもよい、と少しでもお考えの間は、セミナーも
> 存在したほうが良いでしょう。

北岡コメント: はい、私が 2002 年に英国から帰国した理由は、このような「人間意
識の進化と覚醒のワーク」を英語でカリフォルニア (サンフランシスコ近辺) の「道
場」で開始するための「資金稼ぎ」でした。

これは、形はいろいろあると思いますが、私の肉体が滅びるまでは継続するワークで
す。これまでに私が手を染めなかった分野 (たとえば、ユダヤ密教、魔術系) の研究
も死ぬまで続けたいですね。(そのためには、この資本主義社会では、研究三昧に耽
るための「資金」が必要になってくるので、現在の活動を行っているわけです。この
点は、ある意味では、私は、上述の「 セミナーの日程が合わなくて参加を断念した
人間」と同じ立場にいるのかもしれませんよ (笑)。)

> ここで、トナールとナワールのことを思い出します。
>
> 私も、まさかNLPの話題の中でトナール・ナワールという単語が出てくるとは思
> いませんでした。
>
> 現状の世界ではトナール的な考えの存在が多く、先生のご指摘のように、トナール
> 的NLPを求める人が多いのではないでしょうか?
> また、少なからずナワール的な考え・生き方の存在もあり、ナワール的NLPを求
> める人間も存在します。
>
> しかし、これは私見ですが、現世は2元論の世界であるために、どちらか一方
> のみ・・・というわけには行かないようです。

北岡コメント: この「二元論」の克服が、私の最近の重要なテーマです。そのため
にこそ、「無意識ちゃん」にこの二元論を超えてもらう「トランスロジック」といった
ワークを (エリクソン催眠ワークその他で) 行っています。私は「どちらか一方の
み」の「ゼロサム ゲーム」ではなく、(少なくとも無意識レベルでの) 「~と~の両
方」の「非ゼロサムゲーム」を提唱しています。

> ナワールの学習のみを好んでも、どこかでトナールの学習も必要になるようです。
> 陰陽魚太極図のような、関係が存在しているのではないでしょうか?
> だとすると、どちらも必要である・・・・のではないでしょうか。

北岡コメント: この部分は、直前の私のコメントとかぶりますね。

ところで、あの「陰陽図」を「陰陽魚太極図」と言うのだということは知りませんで
した。実は、私個人的には、陰陽図を超えた図式がインドにあると思っています。
このことについては、私は『CYBERBOOK』で以下のように書きました。

「また、この Web サイトの目的上、典型的な基本的『女性/男性』二分対立を表して
いる道教の概念『陰陽』 (またはむしろこの概念を象徴している、よく知られた道教
の円形の陰陽図) も上記の各二分対立を代表していると考えられることができます。
(興味深いことに、道教の人々が『陰陽図』が象徴する二分対立の超越を提唱してい
るのに対して、ヴェーダンタの人々は、さらに進んで、現実は二重要素ではなくて、
むしろ 三重の要素から成り立たっていると示唆しているように思われます。(2 つの
かわりに 3 つの要素を表すかなり密教的な円形象徴図も存在することに注目してく
ださい。) さらに、著者には、ヴェーダンタの人々は現実の三重の性質を論じるとき
さえ、精神世界の求道者に対して、さらに進んで、これらの 3 つの要素も超越する
ように奨めているように思われます。」 (「本体と現象」ページ)

この「3 つの要素を表すかなり密教的な円形象徴円」には、「陰陽図」の二つのパ
ターンのかわりに三つのパターンがあります。「これらの 3 つの要素も超越する」
とは、「静 (タマス)」、「動 (ラージャ))、「和 (サットヴァ)」の三つの性質を超
えて「観察」している「観照者」 (これは三つのパターンを含んだ「円」自体を意味
しています) がいる、という「あまりにも空恐ろしい」ことを意味していると、私は
個人的に考えています。

> 「20 年前に私 [グリンダー] とバンドラーが NLP を創始した後、どうも 『NLP の
> (他の分野への) 適用』というものだけが存在してきているようで、私は個人的には、
> 20 年前の私とバンドラーが行ったような努力をして、新しいものをクリエートする
> NLP 実践者が新たに出てこないかぎり、NLP は今後徐々に衰退していって、20
> 年~30 年後にはやがては消滅してしまう可能性があると思っています。」
>
> という北岡先生のグリンダー氏の言葉の引用には、全く同意いたします。
> 現状のNLPは、私の学んだ団体もそうであったように、NLPピアから
> の新しい提案を受け入れない姿勢が見受けられます。
>
> 学習者同志の実習でも、新しい試みは受け入れられず、同団体で教えた
> シートどおりの、型にはまった方法しか認められませんでした。
>
> 当然、他の分野に当てはめようとする場合には無理が生じますし、もともと
> のNLPの生い立ちからは離れた活用法ばかりが、セミナーの宣伝文句として
> 唄われているので、結局、NLPの本質を理解せず、表面的なところで終わって
> しまうのではないでしょうか。 そのまま、衰退し途絶えるのでは?と私も考えて
> おります。

北岡コメント: このことは、別に日本に限ったことではなく、全世界で起きていま
す。私がメルマガで言及したように、「真の NLP モデリング」 (最近のグリンダー
氏は「ノウナッシング ステート (Know-Nothing State) モデリング」と呼んでいる
「NEW コード NLP」」的なテクニックです) 「以外」の方法で行っている NLP (「適
用」) 活動は、すべて、真の NLP ではないと言っていますので、それほど悲観す
ることでもない (?!) でしょう。

(ところで、貴方の学ばれた団体では「新 NLP テクニック考案」等のセッションはな
いということだと今理解していますが、私が開催するプラクティショナー コースで
は「基本となる NLP テクニック」の完全遵守をしっかり教え、その一方では、マス
ター プラクティショナー コースでは、グループ ワークとして新テクニック考案演
習をちゃんと行い、さらに、同コースの最終日の参加者の査定の課題としては、個々
人がそれぞれ自分自身で考えてきた新テクニック演習をプリゼンしていただきます。
その意味では、貴団体のやり方は、確かに「枠にはめすぎる」傾向があると言えるの
かもしれませんね。

なお、自分で「かってに」テクニックを作ると「危険」なテクニックが生まれてしま
うという可能性については私自身、重々認識していますが、私が教えるコースでは私
自身基本以外のテクニックは教えないし、生徒さんに基本をみっちり抑えさせます
し、基本から外れないようにかなりうるさく指導するので、新考案テクニック演習で
危険なテクニックを作る人はほとんど皆無ですね。

実際、先週末の大阪マスター プラクティショナー コース卒業査定セッションでは、
即そのまま使えるような新テクニックが多く、かなりレベルが高いと見させていただ
きました。)

私は、今後、真の NLP ピアで、NLP 創始者を超えていく人々が現れてくることに
関しては、案外楽観的です。(それが日本人ではなく、西洋人であるかもしれず、ま
た、私が NLP が超えたと主張しているパタンジャリの「ヨガストラ」式瞑想が生ま
れてからその超越までに 2500 年間必要だったので、「もう一つの NLP」が生まれ
るまでに、たとえ後 2500 年間かかるとしてもです。)

> しかし、一方でNLPとは、神経言語プログラミング
> と訳されるように、言葉を利用した、テクニックであります。

北岡コメント: その通りですが、あまり「言葉」にこだわらない方がいいですね。

NLP の名称の誕生の逸話としては、あるとき、バンドラーが車を運転していて、大
麻でラリっているとき、パトカーに止められ、運転免許証の提出を求めた警察官に
「職業は何ですか?」と聞かれて、たまたまそのとき目に入ったダッシュボード付近
の本が「神経学」関連の本で、次に目に入ったのが「言語学」の本で、三冊目が「コ
ンピュータ プログラミング」の本だったので、「『神経…言語…プログラミング』という
学問をしています」とラリッた口調で言ったという話もあるくらいですから。

(この話の信憑性は、私は知りません。ある意味で、私にとっては、ナンセンスなト
ピックなので、グリンダー氏にネーミングの言われについて質問をしたこともないで
す。)

> この言葉についての、個々の認識や捕らえ方を利用して、効果的に働く方法を
> 精製したのがNLPだとすれば(NLPのほんの一部分でしかないかもしれません
> が)言葉を超えた世界を取り扱うにはNLPは道具として、すこし性能が足りない
> のかもしれません。

北岡コメント: そう「かも」しれませんね。少なくとも、このことを超えるためにも、グリ
ンダー氏は「NEW コード NLP」を創始されたのだと思います。

> メタフィジカルな世界の存在に気づく人が増え、またナワール的NLPを発展させ
> れば、これからの人類に大いに役立つものとなるのではないでしょうか?
> (私が思うに、ナワール的NLPこそ、ニューコードNLPでは無いかと考えてお
> ります。さらに進化したものも将来的には生まれてくるでしょうが。)

北岡コメント: はい、私は、今後「NEW コード NLP」は「ナワール NLP」だと形容し
ていくことにします。カスタネーダを研究している (たとえば中沢新一系の) 人々そ
の他、「メタフィジカルな世界の存在に気づく」人々にも、即「わかった」 (ようになっ
ていただける) 可能性もありますよね。

> そして先ほどの太極図をもう一度思い出していただくと、ナワール的NLPだけ
> でもトナール的NLPだけでも、宇宙は成立しないということが考えられます。
>
> そのレベルまで、達せられたのは、私の知るところ北岡先生しかいらっしゃら
> ないので、是非北岡先生には、その両方の探求と後学者へのための、道標を
> 残していただけたら・・・と思いました。

「最高の賛辞」に感謝します。私の二元論超越の原点は、私が研究した (英訳をすべ
て読んだ) 8 世紀のインド人大哲学者のシャンカラチャリヤ (「非二元論ヴェーダン
タ」の創始者) にあります。

> 長々とすみません。

北岡コメント: いえ、非常に刺激的でした。

> 今後とも宜しくお願いいたします。

北岡コメント: このメールに改めて感謝します。こちらこそ今後ともよろしくお願い
します。

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以上がこの読者と私のメール交換内容の抜粋ですが、以前からずっとこのレベルの意見交換を「日本人」とも行いたかったのですが、もろもろの理由から、今までは行えてきていませんでした。(私の意見では、英語であれば、この程度の意見交換は日々普通に行われていると思います。)

個人的には、このような刺激的な意見交換を、NLP に興味ある人々と、ずっと継続的にしたいと思いましたので、現在、会員制にするにしろ公開制にするにしろ、このような「議論」 (あくまでも、今風の携帯メール式の「チャット」ではないです) ができる場を設けたいと、強く思いました。

現在、たまたま、私の「ファンクラブ」的な位置づけになる「北岡ワールド」 Web サイトが企画中なので、このサイトを使って、このような「NLP 談義および質疑応答」の場を作りたいと考えているところです。

このサイトが稼動した時点で、本メルマガでも告知することにします。

2. 北岡はサハラ砂漠に勝ったのか?

最近、私は、mixi に 1980 年代初めに滞在していたサハラ砂漠の写真 (以下の URL 参照) をアップしていますが (実は、1988 年に私自身がニューヨークで撮った、今はなきワールドトレードセンターのツインタワーを下から見上げた写真もアップしていて現在閲覧可能です。この写真にはオーラのようなものが写っていて、かなりの「心霊写真です」と言ってくれる人もいます)、このことについて非常に興味深いことが起こったので、ここに報告します。

http://member.img.mixi.jp/photo/member/14/36/741436_2657857776.jpg

ある知り合いの方が mixi メッセージを送ってくれたのですが、そこに「すてきなお写真ですね。広大な砂漠VS先生を拝見して、先生を変えられなかった点から先生の勝利!などと想像してしまいました。自分も色々な経験を積んでいくぞと思いました」と書かれていたので、以下のような返事を送らせていただきました。

「『あの広大な砂漠に勝つ』という表現は、ひょっとしたら実際に見ていない人が言える言質かもしれません。(実際に見られているかもしれませんが、見た上でおっしゃられているのであれば、ものすごい価値のある言質だと思います。その場合は尊敬いたします。)

あんなものに勝てるほど、極小の人間のマインドは価値ないですよ (笑)。

正確には、『その後の人生において最も大きなもの (神?) を見て、体験するきっかけとして、広大な砂漠を見て、当時の私は大いに変わった』という表現の方が、ずっと適切です。」

私にとっては、3 年間のサハラ砂漠の体験は、それまでの「蟻地獄」から抜け出せるきっかけを作ってくれた貴重な体験でした。このことについては、私は、CD-ROM 本の『CYBERBOOK』の序文で以下のように書かせていただいています。

「私の内なる旅は、80 年代始めに 3 年間滞在したサハラ砂漠の真中で始まりました。その生活は非常に過酷なものでしたが、自然の光景は真の意味で雄大で、言葉の表現を超えたものでした。たとえば、300m 以上の高さにある崖の頂上に立ったとき、不毛の土地を見渡して、遠い過去の川の流れの跡も見ることができましたが、その場所全体は何万年も前には海面下にあったはずのことを発見しました。というのも、その崖の頂上ではたくさんの貝の化石を拾い上げることができたからです。また、不毛の砂丘の真中で大きな朝日が東から昇っているのを見たとき、同時に西の地平線上には同じく大きな黄色の満月がありました。 私は、広大な自然の前で人間存在の微小さを感じないではいられませんでした。」

この体験は、私にとって、グレゴリー ベイツンの言う「さらに大いなるマインド」があるという経験的認識をもたせてくれた右脳的経験でした。

私の返事に対する知り合いの方の再返事は「先生のご指摘の通り、サハラ砂漠の体験が先生を『変えられなかった』とはおっしゃっていませんでした。『当時の問題を根本的に解決しなかった』とメルマガに書かれていたのを私が誤って書いてしまいました。ご迷惑おかけしてすみませんでした。 また、ご指摘して頂きましてありがとうございます」というものでした。

あのサハラ砂漠の写真を見て、同じような「誤った」印象をもたれる方々もいるのではないかと思い (人間のマインドは皆同じように機能するので)、ご本人の許可を得て、このメッセージ会話を引用させていただきました。

3. メタモデルを通じた無意識に関する考察

最近のジョン グリンダー氏の NEW コード NLP ワークに「バーバルパッケージ」というテクニックがあります。これは、(NLP で一番最初に開発されたテクニックである) 「メタモデル」質問群を、ビジネス向けに簡易化したコミュニケーション質問テクニックです。

手順としては、1) 「フレーミング」 (場の設定)、2) 「非限定名詞の限定化質問」 (「特にどの~ですか?」) とそれに続く「非限定動詞の限定化質問」 (「特にどのように~するのですか?」)、3) 「パラフレージング」 (自分が理解したことを自分自身の言葉で言い返すことによる、自分の理解が正しいかどうかの確認)」となっています。この手順全体を通じて 4) 「妥当性チェック」 (話されている内容がその議題にとって妥当かどうかのチェック) が行われます。

このバーバルパッケージは、グリンダー氏とカルメン ボスティック女史が 2006 年と 2007 年に国内で開講された「NLP コーチング」コースでも正式に紹介され、その有益性と効果性が証明されましたが、このとき、ボスティック女史が非常に興味深いことを教えられました。

すなわち、彼女は、この「メタモデル簡易バージョン」の質問形式でも十分目的は達成されるけれども、追加質問として、メタモデルの「可能性と必然性の叙法助動詞」 (つまり、「~できる」および「~べきである」といった表現です) と「普遍的数量子」 (「いつも」、「すべて」、「どの」、「決して」、「絶対」といった表現です) のメタモデル離反についても異議申し立ての質問をするように推奨しました。

(少々詳しく説明すると、メタモデルでは、「可能性の叙法助動詞」の離反である「私には~できない」に対しては「もしあなたが~できたら何が起こりますか?」と質問し、「必然性の除法助動詞」離反の「私は~すべきではない」に対しては「あなたが~をしたら何が起こりますか?」と質問し、「普遍的数量子」の離反の「彼はいつも~する」に対しては「いつもですか?」と質問するようになっています。)

ここで、極めて興味深いことは、主に 20 年、30 年以上のキャリアのある研修講師が参加していた私の「特別開催」資格コースの中で、これらの現場の専門家が、メタモデルを学んでいるときに、いみじくも、「先生、メタモデルの十いくつある質問群の中で、『可能性と必然性の叙法助動詞』と『普遍的数量子』の質問だけは、性質が他と少し違いますね」というするどい指摘を (ボスティック女史の講義以前に) していた事実です。

これらの二つの質問が他のメタモデル質問群とどのように性質が違うのかについて、そのときは、この発言者に尋ねきれていませんでしたが (今後機会があれば尋ねてみたいともと思っていますが)、現在、私には、この二つのメタモデル離反については、「無意識の領域では、『できる』、『べきである』 (除法助動詞) も、『いつも』、『すべて』、『どの』、『決して』、『絶対』 (普遍的数量子) も、表出することは不可能である」ということが判明しています。

すなわち、無意識の世界では、あることを「している」のか「していない」のかのもっとも単純な区別は存在するにしても (というか、さらに厳密に言うと、「していない」ということ自体がそもそも無意識には表出できないという、空恐ろしい結論も導き出されてしまいますが)、「~することができない」、「~するべきである」という表出も、「いつも~する」、「決して~しない」の表出も、無意識の領域には存在しないわけです。

このことは、非常に興味深いと思いますが、さらに言うと、「無意識は、『やればできること』と『やろうとしてもできないこと』の区別ができない」という結論も導き出されてしまいます。

おそらく、「やればできること」と「やろうとしてもできないこと」も、無意識の領域では、同じように、「今していないこと」として表出されてしてしまうと思われます。

ということは、無意識が「今していないこと」を、「意識の必要以上の介入」のせいで、(本当は実際には「やればできること」なのに、不必要に) 「やろうとしてもできないこと」と「誤認」する場合も多々あるということが示唆されます。このためにこそ、私たちは通常、とたえば「自分は天才にはなれない」と思い込んでしまうではないでしょうか?

私には、私たちの意識と無意識が協力して、「やればできること」と「やろうとしてもできないこと」の間の区別ができるようになったら、その人は即「天才」になれるように思われます。なぜならば、その場合、私たちは、「『やればできること』をするために何を『する』必要があるか」を特定することが比較的容易になるからです。

作成 2023/12/22