以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 83 号 (2008.3.7 刊) からの抜粋引用です。

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今回は、「1. 「トランスロジック」について」、「2. ゲシュタルト セラピーで第三ポジションが使われないことに対しての再考」、「3. 日本の NLP トレーナーは「説明できないが、体で示せる」のか?」、「4. マスター プラクティショナー コースでの新テクニック考案演習について」、「5. コース参加者の NLP 学習についての感想」を中心にお伝えします。


1. 「トランスロジック」について

本メルマガの第 79 号で、私は以下のように書きました。

「この [2007 年 12 月に開催された『第一弾北岡マインドワーク-無意識の世界にコンタクトする!』] ワークショップでは、私がこれまで学院等で披露したことのない演習もいくつか学ばれました。特に、ワークショップの最後の演習は、私がスティーブ ギリガンから学んだ『トランスロジック』演習をリアレンジしたものでした。

これは、クライアント役の人をトランスに入れた後、『あなたは悲しいです。そしてあなたはうれしいです。あなたは、同時に悲しいこともうれしいことも楽しめます』というふうに誘導することで、『~かもしくは~』の二元論でしか機能できない左脳的な意識下では考えられない『同時に~であり、~でもある』という状態をトランス下で生成させて、無意識に、ある任意の問題は、実は同時に問題でもあり、問題でもないことを経験的に納得させる演習です。

演習後の参加者のフィードバックによれば、大きな変容が経験されたようでもありました。

このように、私の無意識的 (= 催眠) ワークの効果が本ワークショップの参加者に評価されたようでしたので、現在、その延長線上に位置するものとして、また、無意識的ワークの根幹になるものとして、『ミルトン モデル/エリクソン式催眠』ワークショップを開講する企画を、考えています。(この第三弾北岡マインドワーク ワークショップは、3 月 21 日 ~ 23日に開催されます。)」

この演習に関連して、極めて興味深いことが起こりましたので、本紙で報告したいと思いました。

2007 年 12 月に開催されたこの「第一弾北岡マインドワーク-無意識の世界にコンタクトする!」ワークショップと同じ内容のワークショップが、 「第三弾北岡マインドワーク」として 4 月 26 日~ 27 日に開催されることが予定されていますが、このワークショップの主催者から、「前回のワークショップの一番最後に行われたこの演習では、北岡先生のデモ演習だけでは、参加者の方々の『理解度』がもう一つのようだったので、4 月開催の第三弾マインドワークでは、一つ一つのグループを回って、懇切丁寧にやり方を教えていただけませんか?」という意味のリクエストを受けました。

私は、以下の理由から、このリクエストは受けられません、と答えました。

1) この演習を一人一人に私がデモを行うと、時間がかかりすぎてしまう。

2) 私の通常のワークでは、私がデモ演習を行った後の生徒さんによる体験演習の間の私の「不親切さ」は非常に有名である。これは、私は、あえてそうしているのであって、日本の

5 + 2 = □

という決まりきった、先生の言うとおりにしかできない人を作り出すのではなく (そのためにこそ、この何十万人というニート族ができているという極めて不都合な状況が国内で生み出されていると結論づけられます)、英国、オーストラリアのように

□ + □ = 7

というふうに、自分で物を考えることのできる人間を作る必要が、(ニート族撲滅のためには) 急務となっている。

(ちなみに、私自身は、20 年以上にわたる欧米滞在中に「ニート族」といった社会現象を聞いたことは一度もありません。一人もいないとは断言できませんが、西洋人は、成人なると、親元を離れることが社会の規範となっています。この現象は、(私がこのメルマガで示唆してきているように、団塊の世代の「甘やかし」で生まれたと私は見ていますが) 日本独特の社会問題です。)

3) 私も、NLP の研究、学習に関しては、いわば、私の講義を受ける生徒さんと立場はまったく同じで、NLP 四天王やギリガン氏が「一回こっきり」しか行わなかった演習を、いっさい何も見逃さないぞという思いで、「完全カリブレーション」、「完全モデリング」を行ってきているのであって (たとえもし私の方が通常の NLP ピアよりも「モデリング能力」が高いということは否定できないとしても)、私は、同じことを行うように自分の生徒さんに要求しているだけである。

「このようなこと」もできないようでは、その「NLP モデラー」は、将来的に催眠、NLP の学びを深めることはできないだろう。

4) (他の演習ではなくて) この「トランスロジック」の演習に対してだけ、このような「注文」がつくというのは、生徒さんに関してこの演習が「あまりに腑に落ちない、意識的に理解できなかった」からこそ「先生からのちゃんとした説明があれば、生徒さんはもっと腑に落ちるでしょう」といった考えから出たのだろう。

しかし、まさにそれこそこの演習の大目的だったので、演習は大成功しているということになる!

なぜならば、そもそも「トランスロジック」は「~も真で、同時に~も真である」というふうに「意識」の理解を越えて、「意識を黙らせて、無意識の参加を誘発、普遍化する」ことにあるので、「あの演習だけは腑に落ちなかった」という「意識的認識」は演習の大成功を意味しているからである。

そもそも右脳 (無意識) は左脳 (意識) を介入または理解しようとしてはならず、逆も真である。(聖書には「右手が行っていることは、左手が行っていることに干渉してはならない」という表現がある)。できることと言えば、右脳と左脳を超えた「メタ」に進んで、そこから右脳と左脳を適所適材的に使い分けることだけである。

5) 仮に百歩譲って、もし前回の「トランスロジック」の演習が「失敗」だったとしても、失敗を認識できる人の頭の中には (無意識的に) 成功の表出がすでにあるので、無意識的な学習はすでに達成されている、という見方も、NLP 的には可能である。


これらの理由を主催者に伝えると、快く、「わかりました。では前回起こったことを踏襲させていただきます」という返事をいただきました。

ちなみに、この「トランスロジック」演習は、先週末の (日本 NLP 学院での) 東京第 5 期マスター プラクティショナー コース モジュールでも紹介しましたが、コース参加者からこの原語は何ですか、と聞かれ、「Trance Logic (トランス論理)」です、と答えると、「Trans-logic (超論理)」ではないですか、と言われました。

私は、どちらの意味もかけているはずでしょう、と付言しておきましたが、今、改めてギリガンの著書とインターネット検索で調べてみると、やはり原語は「Trance Logic」のようです。


2. ゲシュタルト セラピーで第三ポジションが使われないことに対しての再考

本メルマガの前号の「4. 前 NLP 的セラピーと NLP の決定的な違い」で、私は、ゲシュタルト セラピーと NLP の決定的な違いは、後者に存在する「メタ ポジション」が前者には存在しない点である、ことを示唆しました。

このことについて、私の現在の資格コースの生徒さんが、メールで以下の 3 つの関連質問をして、私がメール回答したのですが、本紙の読者の方々にも興味深いと思いますで、このやり取りを引用させていただくことにします。

1) 「ゲシュタルトセラピーで第3ポジションを使わない肯定的な意図は何か?」

これに対する私の答えは、「(本メルマガの前号でも示唆したように) 単にゲシュタルト セラピーの創始者のフリッツ パールズにはこのことに単に思い至ることはできなかっただけだと思います」というものでした。

2) 「メタに抜ける、という言い方が第3ポジションということと完全にイコールである、 として受け取られてしまうと、(そういう意図で紹介されていないとしても、そう受け取られている可能性は高いです) メタに抜けるということの意味が矮小化されてしまう部分があると思います。なので、メタに抜けるということの定義として、 これまで経験の主体 (subject) であったものが観察の対象 (object) になる視点 (perspective) を得ること、ときちんと言い換えたほうが汎用性のある概念になるのではないか? 北岡先生はそもそもそういう意味で紹介されていたとしても、そう理解していない人が多い可能性があるので、もう一度そう定義しなおしてはどうか? また、その方が『メタに抜ける』ということの本当の意味を表しているのではないか?」

この質問者は、補足説明として、以下のようにも述べています。

「私が話題にしたいのは、パールズがなぜ第3ポジションに気づけなかったのかとか、単に思い至らなかったのではないか、ということでは【なくて】、療法的効果を生み出していたパールズのセラピーの中で行われていた【第1・第2ポジョションのみを経験すること】の中に含まれる肯定的側面は何か? ということです。

早い話が、単純に北岡先生の口ぶりから得られる印象として、それほど第1第2ポジションは目の敵なのか?という素朴な印象が湧いています(北岡先生がそれを含蓄していないことがメルマガ内に明示されていることは認識していますが)。

第1第2を経験することが第3を生み出す基盤になっているのではないか、という発達論的側面を単純に指摘したいだけです。ことさら強調したいわけではありません。

もちろん、ゲシュタルトセラピー的にそのように気づきを得るよりも、NLP的にメタに抜けて、プログラミング自体を変えてしまうブラックボックスアプローチの方が量子飛躍的に優位であることを否定するつもりは毛頭ありませんし、そのことは良く理解しているつもりです。

私はただ単に、第1第2ポジションを経験していくことの中に肯定的側面がある、ということを述べているに過ぎません。

NLPの演習をしなくても、メタに抜け続けて”健康的に”ボックスの外に抜け続けていける人もいるわけですから、人間には本来、何らかの条件が整うことで自然にボックスの外に出て行けるようにプログラミングされているようだと、私は捉えています。そのプログラミングが何らかの原因でブロックされた時に、メタに抜けられないに過ぎないのではないか、と考えています。

NLPは、第3ポジションが自然発生するのを待つだけではなく、意図的に早々に持ち出して、かつそれを多層的に活用することで、上述のような本来の人間の発達の姿(メタの自然発生)に戻りやすくするための地図と方法論を示しているのだと思います。」

(北岡注: この質問者は、上記の文章の中で、「第3ポジション」を「メタポジション」として定義していますが (この定義は、「第3ポジション」は「第1ポジション」と「第2ポジション」の「メタ」であるので、まったくの間違いということではないですが、議論の目的上、ここでの「メタポジション」とは、「第4ポジション」(あるいはそれ以上のポジション) と取る必要があります。)

この質問と補足説明に対しては、私は以下のように答えさせていただきました。

「確かに、あるレベルからメタに行くということは、『これまで経験の主体 (subject) であったものが観察の対象 (object) になる視点 (perspective) を得ること』ということであるという指摘は、まったくそのとおりです。

ただ、 私には、なぜ第一ポジションから第二ポジションに抜けることが『それほどまでに重要なのか』がわかりません。

このことは、そのことが重要なのではないという意味ではありませんし、また、パールズの『空の椅子』の方法論の『革命性』を否定するものでもありません。(そもそも、『空の椅子』がなければ、ほぼすべての NLP の個人編集テクニック演習は生まれていません。)

ただ、この議論は、NLP は表出体系を『発見』し、それを自由に行き来でき、ラポール形成にも利用でき、かつその下のサブモダリティも発見しましたが (このこと自体は五感を超えていない = ボックスから出ていないと不可能です)、このレベルの『未曾有』の話を、いわば、人間は『今視覚体験をもっていて、次の瞬間に聴覚体験をもつことができます』といったようなレベルだけの話にまで還元することはできないと思います。その理由は、後者の場合、『ボックス』から明示的に抜け切れていないからです。

同様に、第一ポジションから第三ポジションまでは、すでに『第一人称』から『第三人称』までの言語がすでに存在していて (その変更が自由にできるかどうかは別問題にしても)、この平面レベルの話と、それを見ている『メタ ポジション』に抜ける話には雲泥の差があります。『未曾有』の『第四人称』 (メタ ポジションのことです) に行く話と、すでに言語化できている第一人称から第ニ人称または第三人称に行く話は一緒にできないです。(『知覚ポジション モデル』が検証に耐えうるモデルになっているのは、メタの第四ポジション以上があるからであって、そうでなければ『何と幼稚なモデルなんでしょう。そんなことは誰でも知っています』といった罵倒の対象になるモデルになってしまっていると思います。)

(北岡注: 上の段落にある『第一人称から第ニ人称または第三人称に行く話』とは、『コンテンツ』のレベルで起こっていることであり、『「未曾有」の「第四人称」 (メタ ポジションのことです) に行く話』とは、『コンテンツからプロセスに抜ける』ことである、と言い換えると、このトピックがさらに理解しやすくなると思われます。)

私には、『コンテンツ レベルの「奇跡」』と『コンテンツ レベルからプロセス レベルに抜ける際の「奇跡」』という対比が思い当たります。前者の『すごい、すごい』というゲシュタルト的な驚きと、後者の『すごい、すごい』という NLP 的な驚きの間には決定的な質的な差があります。前者を体験していない人々に後者がわからないことも、私は充分認識しています。

『NLPの演習をしなくても、メタに抜け続けて”健康的に”ボックスの外に抜け続けていける人もいる』ことについては、第一から第三ポジションまでの話なら充分同意できます。しかし、(自由自在に) 『真のメタポジション』に抜ける話となると、このことができる人の数はそう多くないと思います。それは『悟りを開く』こととも関係してきますので。」

3)「北岡先生の個人編集テクニックの柱の4つに加えて、知覚ポジションシフトが入っていないのはなぜか?」

これに対する私の答えは、「この質問について考えてみましたが、たとえば『アンカーリング』、『サブモダリティ』等の個人編集テクニックに関して (この二つは、単体として、個人編集テクニックでありえます)、必ずしも知覚ポジション変更が起こるわけではない、ということが、私が『知覚ポジション』を個人編集テクニックの柱 (現在の私のモデルでは、「アンカーリング」、「リフレーミング」、「TOTE」、「サブモダリティ」の四つです) に入れていない (無意識的な) 理由になっていたようです」というものでした。


3. 日本の NLP トレーナーは「説明できないが、体で示せる」のか?

前項の質問者と、その後メール交信してきていましたが、さらに興味深いことが発見されたので、報告したいと思いました。

この方は、たまたま、「コンテンツ バリバリのNLP演習を提供しているNLP団体は、日本人のレベルをコンテンツ レベルからプロセス モデルに引き上げる最初の段階を進めている、と言えるのではないか、と思いました」という質問をされましたが、私はそれに対して、以下のように答えました。

「この見方は、現状誤認識だと思います。楽観的すぎますね。その理由は、日本よりももっとまともな NLP が比較できない規模で存在している欧米の場合でさえ、このようなことは頻繁には起こってきていないので、日本だけ特別に例外が起こっているとはとても思えないからです。さらに、該当の団体の『アウトカム』は『ビジネス的な成功』だと思うので、プロセス モデルを教えてしまうとビジネスにならないのではないでしょうか (笑)?」

このことに関して、私は、再度、「灯台下暗し」的な洞察をもちました。

それは、NLP 共同創始者のジョン グリンダー氏は、(私が同氏に初めて出会った) 1980 年代から首尾一貫して、「NLP を『語れる』 NLP ピアは数多いが、それを他の人々に対して生きた形で『体で示せる』人は非常に少ない」と主張してきていることと関連しています。このことについては、同氏は以下のように語っています。(かなりマイルドな表現になっているかとは思いますが。)

「NLP の適用段階には、自転車に乗ることを学ぶプロセスほど複雑なパターンは存在しないことを忘れないでください。ただし、自転車に乗ることについて話をしたり書物を読んだりすることは、あるいは、自転車乗りの物理的過程についての知識を習得することも、自転車に乗ることを学ぶこと自体とは無関係です。書物を脇に置いて、世界の中で行動してください! 」 (本メルマガ第 51 号からの引用)

同氏は、国内のコースでも、頻繁に「NLP を生ききって、世界の手本となってください」ともおっしゃっておられました。

実は、このグリンダー氏の進言、批判は、プライベートの場でお聞きすると、非常に痛烈、辛辣です。一例だけ挙げると、国内でも名が知れていて、ファンも多くいるように見うけられる NLP トレーナーのマイケル ホール氏に対しても、グリンダー氏の評価は「左脳的すぎる。NLP を語れるが、体で示せていない」といったものになっています (この評価を聞かれてかなり驚く日本人も多いと思います)。

以上のことは、欧米人は論理的な議論ができるように子供の頃から訓練されてきていて、また左脳的な議論が大好きだという事実に起因しています。

ですので、グリンダー氏が「語れるが、体で示せていない、(欧米の) NLP トレーナー」という表現を使うときは、極めて上級の欧米の NLP トレーナーも数多く含まれています。

この NLP 創始者のかなり厳しい判断基準から言うと、日本では、通常、多くの NLP トレーナーは「体で示せるが、説明はできない (= 右脳では示せるが、左脳では説明できない)」と見なされていますが、もしかしたら、むしろ国内のトレーナーの多くは「説明できないし、体でも示せない」と形容した方が、より妥当で、普遍性があるのかもしれません。

一方では、私自身の場合は、その逆の評価 (「これだけ左脳的な説明をする人間は、体で示せないのでは?」) を受けてきているようにも思いますが、私のワークを実際に受けた方には理解できると思いますが、私の実際のワークの中では、私の左脳的説明は「必ず」体験演習によって右脳的に落とし込まれますし、同時に、右脳的な体験的理解を左脳に落とし込む私の能力については、本紙の読者は容易に想像できると思いますので、あえてここで説明する必要はないと思います。

さらに、私の NLP ワークで自分が最も重要視しているのは、以下の 2 点のエリアです。

1) 私が担当する演習は、必ず私自身がデモ演習することにしています (国内の上級トレーナーで、ワーク参加者に演習の手順を教えるだけで自分でデモ演習をしない方がいると聞いて、非常に驚いたことがあります)。

2) ワーク参加者全体から (ときには強制的に!) まったくの「オープン質問」を受け付けて、文字とおりどのような質問であっても、その場で即、スクリプトなしに即興的に回答、解説します。この点については、先週末のマスター プラクティショナー コース参加者の一人からは、「1日目の午前中の北岡先生は、ヤバかったです!!! 『柔』と『剛』が一緒になっていて、 まったくスキのない武道家を見てる気分でした。 特にフィードバック中で、生徒の方とのやりとりを見ていて特に思いました」という感想もいただきました。

私は、自分の NLP ワークの中で「一番の生きがい」を感じるのは、(座学ではなく、生きた経験である) 以上の二つのエリアだけだ、と言っても過言ではないですし、もしかりに現在、私がこの二つのエリアで「すばらしいプリゼンター」としての能力を発揮できているとしたら、(若い頃の蟻地獄に陥っていた頃の私には想像することさえできないことだったので) 「NLP を通じて私は、(限定されたエリアですが) 『天才』になりました」と胸を張って主張できます。つまり、グリンダー氏の「NLP を生ききれ!」を実際に実践してきているつもりでいます。

以上のように、私は、グリンダー氏の評価基準から言っても、「語ることも、体で示すこと」もできている、と自負できますし (まさにそのことを肝に銘じながら、グリンダー氏等の元で 20 年以上 NLP を学んできました)、私のワークは、他のどの国内の NLP トレーナーも真似のできない「ホーリスティック (全体的) NLP」 (あるいは「インテグラル (統合的) NLP」) である、と主張しても、あながち的を外していないはずだ、と思いました。


4. マスター プラクティショナー コースでの新テクニック考案演習について

先週末のマスター プラクティショナー コース モジュールでは、コース参加者が小グループに分かれて、新テクニック考案演習を行いました。

いくつかの新考案テクニック作品が、コース参加者全体の前で、プリゼン発表されましたが、すべて、非常に興味深いものでした。歴史的に言って、新考案テクニックのパターンには、そのときそのときのコースごとの傾向があるようで、たとえば、以前、私が「ニューコード NLP」を力説していたころは多くのグループがニューコード NLP の要素を取り入れたテクニックを考案していましたが、今回は、既存のテクニックを組み合わせた、シンプルな、しかも洗練された傾向を見せていました。

その中の一例を取ると (このグループの作品だけがすごくて、他のグループの作品はそうではなかった、という意味ではなくて、今回のグループ全体の傾向を端的に示すものとして引用しているだけですが)、あるグループは、マスター プラクティショナー コースで学んだ「BATNA (交渉同意のためのよりよい代替手段)」という交渉術テクニック (これは、1978 年のキャンプ デービッドでのサダト、ベギン、カーター間での和平交渉で 2 週間のデッドロックの末、関係者がこのモデルを交渉に導入したとたんに一晩で中東和平交渉合意 (いわゆる「キャンプ デービッド合意」) が締結されたという事実で有名になっているモデルです。日本では、「ハーバード流交渉術」と形容されているようです) とディルツの「心身論理レベル」およびバンドラーの「サブモダリティ」を組み合わせた新テクニック演習を発表しました。

このテクニック作品では、当初クライアントの夫役が「今日今から野球場にプロ野球を見に行きたい」というアウトカムをもっていて、妻役が「海辺のレストランで静かに食事をしたい」というアウトカムをもっていましたが、調停役のプリゼンターが演習を終わらせる頃には、二人が「まず野球場に行って二人で一緒にその場の雰囲気を楽しんで、その後、青山の洒落たレストランでワインを飲みながらゆっくりと食事を取る」といったアウトカムの刷り合わせを自ら自発的に行うまでになっていました!

私には、これは、講義や現場で即そのまま使えるテクニックだというふうに思えました。

このグループ発表演習を終えた後、複数のコース参加者が、この演習は非常に役に立った、と私に感想を言ってくださいましたが、一点、演習終了後にコース参加者全体に伝えることを忘れていたことに気づきました。

それは、このグループ演習は、もちろん、それ自体が 「SRCF/C」 (「ステートマネジメント (状態管理)」、「ラポール」、「カリブレーション」、「フレキシビリティー (柔軟性)」、「コングルイティ (首尾一貫性)」) の演習になっていたのであり、かつ、「BATNA」の能力を磨く場そのものであった (私のワークは、通常、このように、多機能、多重層、マルチレベルの複雑な、「非線状」的、「再帰」的学習が達成されるように構成、設計されています)、という事実です。

当然のことながら、グループ メンバーの多くは、このことに、無意識的にであれ、気づきながら演習を行っていたとは思いますが、この紙面を借りて、このことを改めて明示化しておきたいと思いました。

(実を言うと、NLP ワークの時間だげでなく、24 時間起きていても寝ていても、どの場所にいても「SRCF/C」の実践が可能になって初めて、「NLP を生ききっている」状態になるのでは、と私は考えています!)


5. コース参加者の NLP 学習についての感想

本メルマガの本号を発行しようとしていたとき、現在の私のマスター プラクティショナー コース参加者のお一人がコース生用メーリング リストに「NLP の魅力」と題したメッセージを投稿していることに気づきました。このメッセージは、最近の私のメルマガでのトピックとも関係していると思いますので、ご本人の引用許可を得た上で、ここに原文を引用させていただきます。

「今日は一日NLPプラクティショナーコースの復習をしていました。マスターも残すモジュールはあと1回だけになったのですが、さすがにここまで来ると、NLPの全体像が見えてきました。

難解に感じていたプラクティショナーコースの分厚いテキストも先生のメルマガの理解度もかなり向上してきました。

特に凄さを実感しているのは相手のコンテンツに入ることなく、プロセスで変化を促すことができる点です。

例えば、何か悩みを抱えた人に相談をもちかけられたときに、通常であれば、話の内容について充分に聞き、自身の経験からなんらかのアドバイスをすることになります。(「相手の内容」をコンテンツという) しかし、NLPの場合は、話の内容を聞かずに、数十あるスキル(公式と呼んでもいいかも)にあてはめて、公式を忠実に実行できるように相手を促すことで、コンテンツに入るのとは違った短時間での大きな変化が期待できます。

私の場合、これまでは自分自身のケアのために学び、活用してきました。

そろそろ、自分だけではなく、他の方にも体感していただく機会を増やすほうがいいかなという気がしてきました。

もちろん、自分自身に対してもいろいろ試す余地は限りなくあります。

しかし、他の方が体感する変化により、実は自分自身が持っているリソースでは到底知りえることが出来なかった気づきを得られることも事実です。

最近、ちょっとそういうおもしろさに魅せられています。」

作成 2023/12/19