以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 81 号 (2008.2.19 刊) からの抜粋引用です。

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今回は、「1. 最近見た興味深いビデオ フィルムについて」、「2. 日本の NLP は、本当は「NLP の手法を使った前 NLP」なのか?」、「3. スマートな NLP vs バタ臭いセラピー」) を中心にお伝えします。


1. 最近見た興味深いビデオ フィルムについて

最近私は興味深いビデオ フィルム (英語版) を二本見ました。(両方とも、私のトレーニング パートナーのアラスタ プレンティスさんが私に教えてくれたものです。)

一つ目は、「What the Bleep」 (2005 年) という DVD 映画です。

これは、優秀なカメラマンである聴覚障害者の女性の日常生活の描写、量子力学者等の各専門家のインタビュー、頭の中の脳細胞のシナプス等の場所で起こっていることのコンピュータ グラフィック (CG) 映像描写の「三つの筋」が、目まぐるしく入れ替わる、非常に奇妙な映画です。

有名なシーンとしては、主人公の女性が屋外でバスケットボールをしている黒人の子供と出会いますが、彼女が後ろを向いているときはこの子供が手にするボールの位置は無限にありえるのに (実際に無数の子供と無数のボールが映し出されます)、振り向いた途端に、子供とボールの位置は決まってしまい、唯一つの可能性に限定されるという場面です。このシーンは、最近の量子力学者の「パラレル ワールド」の概念を視覚化したものです。

また、この女性が地下鉄の駅で「Dr Masuro Emoto の『Messages from Water』」 (江本勝氏の「水からの伝言」) という本の販促キャンペーン現場に出くわします。

側にいる人の情緒的状態に応じて、(凍らせたときに) できあがる美しい水の結晶の写真群が興味深かったので、この (英語版) DVD ドキュメンタリを入手しましたが、水の入ったビンの上に「ありがとう」と書いたシールを貼り付けたり、美しいシンフォニーのクラシック音楽を聴かせた場合は、凍らせた水は見事な結晶を作り出す一方で、罵り言葉のシールを貼り付けたり、乱暴な音楽を聴かせた場合は、歪な形の結晶しか作り出されないことを実験しているシーンは意味深長だと思いました。

この映画で、NLP 的に一番関係があるなと思ったのは、脳細胞のシナプスの場所でありとあらゆる化学反応が起こっているのを非常に「衝撃的」に描写した CG 映像で、あるシーンでは、ある枝につながっていた一本のシナプスの「子枝」が、そこからもぎ離され、他の別の枝に引っ付き始めるという映像もあります。

この映像を見たとき (私自身、実際にシナプスの枝が離れたりくっついたりすることが物理的に起こりえるのかどうか知りませんが)、「これこそ、NLP テクニックを行っているときに、アンカーリングで行動を変える際に、『古い回路』が『新しい回路』に取って代わられることの、まさに映像的表現だ」と思いました。

この映画の最大のメッセージは「客観的世界は観察者から独立しては存在しない。観察者は永続的に一瞬一瞬の世界を自ら作り出している」といったもので、これは、最近ポピュラーになっている『ザ シークレット』のテーマともつながっていると思いますし、また、これこそ NLP 的認識論の立場です。

二つ目のビデオ フィルムは、2002 年制作の「The Century of the Self」という BBC ドキュメンタリー番組です。これは、60 分ものが 4 回続くシリーズ番組です。(YouTube その他でダウンロードできるようです。)

この番組の前半部では、無意識を発見し、隠された本来の自分は「抑圧」すべきと考えたフロイト、フロイトの甥で、「アメリカの PR (広報) の父」となったエドワード・バーネイズ等が紹介され、どのように「大衆を操作できるか」が分析されています。

一方では、米国では、大衆の抑圧克服の方法としてフロイトの精神分析が国をあげてプロモートされた事実も指摘されていますが、なぜ精神分析が一時期あれほどまで爆発的に米国で広がったのかが、これでよく理解できました。

さらには、フロイト陣営 (特にフロイトの娘のアンナ・フロイト) から「破門」され、後に「オルゴン エネルギー」を提唱して獄中死したヴィルヘルム ライヒが、死後再評価されてきいることにも触れられています。

番組の半ばでは、アメリカの (極) 左翼の人々 (特に Yippies (青年国際党員) やウェザーマンのメンバー) がどのように政治から離れ、個人主義に走り、セラピーに向かったかが分析されています。イッピーの活動家であったスチュアート・アルバートが、『Do It! (やっちまえ!)』の著者でイッピーの広告塔だったジェリー・ルービンのことを「あいつは政治を離れて、エサレン研究所に行ってしまった」と皮肉っているのは、非常に象徴的です。

そのエサレン研究所については、ゲシュタルト療法のフリッツ パールズのセッション シーンが見られますし、エンカウンター、リバーシング (風の) の激しいセラピー セッションのシーンが写されています。

さらには (私は、エサレン研究所ワークの延長線上にあると理解している) est セラピーの創始者ワーナー・エアハードのインタビューも見られます。(私自身、1980 年代初めにフランスのパリで est 系の合宿ワークショップに参加したことがありますが、最終的には参加者の一人が他の参加者の前で「用を足す」という状況まで起こりました。私自身、est でそこまでのセラピーが常態化していたかどうかは知りませんが、少なくとも、エサレン ワーク、est ワークのようなセラピーを極度まで押し進めると、「何でもあり」になってしまうことは、想像に難くありません。)

この番組の終わりでは、「大衆の操作」の結果、どのようにしてアメリカでは民主党のクリントンが、英国では労働党のトニー・ブレアが政権を取ったかが分析されています。主な手法として、PR 界で使われていた「フォーカス グループ」 (製品のデザイン過程において、ユーザーからの情報を収集するために集められる、数人のユーザーグループ) の手法が有権者のそのときそのときの意向や欲求を知る目的で取り入れられたことが紹介されています。

この 4 時間のドキュメンタリー番組を見て、改めて感じたことは、「大衆操作の方法」をマスメディア (それも国営放送で!) で開示してしまう英国という国は何という国なのだろうか、というものです。

それに比べて、吉本新喜劇風の路線の番組で明け暮れるマスコミ媒体しかない日本の状況は、改めて憂うべきものだと感じました。私自身、このような「低俗な番組」批判をしているのではなく (アメリカでも英国でも低俗な番組は日本以上に、山とあります。とはいっても、一時期の英国の人形コメディー番組の「Spitting Image」は英国皇室を痛烈に風刺したものでしたが、そのような番組も、逆の意味で、日本では想像不可能ですが)、「そのような番組しかない」、選択肢が初めから奪われている状況が問題であると、主張しているだけです。


2. 日本の NLP は、本当は「NLP の手法を使った前 NLP」なのか?

私は、人々から、ある団体はプラクティショナー コースもマスター プラクティショナー コースも数十人単位で集めているようです、という情報をいただきます。

このことは、非常にいいことだと思いますが、一方では、「これらの団体の手法は、非常にコンテント志向で、(場合によっては) 泣いたり、感情的になったりすることで、参加者がある種の『中毒』のようになっているようです」という意見も耳にします。

結局私が思うことは、上記の項目 4. で示唆したような (コンテント志向の) エサレン系、est 系のセラピーワークが「真の人間解放」を成し遂げることができなかったという反省の元に 1975 年に (コンテント フリーの) NLP が西海岸で生まれているわけですが、そして、日本は、そのようなセラピーを経ずにして NLP を学んでいるという事実に (少なくとも最近まで) NLP が理解されてきていなかった理由があったと、私は本メルマガを通じて主張してきているつもりでいますが、このように、もともと完全にコンテント フリーであるべき NLP の手法を「コンテントばりばり」のセラピーに使うことで「大成功」している団体が国内に存在しているということは、非常に皮肉な逆説だと思います。

私自身、このような団体の方向性を批判するつもりはいっさいありませんが、ただ、コンテント フリーの「本物、本来の NLP」と「NLP と呼ばれている手法を使った前 NLP 的コンテント志向セラピー」の区別を識別できるだけの目だけは失ってはいけないと思います。

さらに、このような「NLP の手法を使った前 NLP 的セラピー」を受ける用意のある人々が国内で増えれば増えるほど、それだけ遅かれ早かれ「コンテント フリーの NLP」を求めようとする人々の数も順次増えていくことは間違いない、と私は個人的に確信しています。

このことに関連して、国内のセラピストやカウンセラーで、(特に無意識を扱う ニューコード NLP のような) NLP 的な「いつのまにか自分の知らないうちに行動変容が起こっている」という効果よりも、劇的な、情緒的な変化をクライアントの中に求める人が多いという話も聞きました。

(ちなみに、「いつのまにか自分の知らないうちに行動変容が起こっている」ということこそ、私が最も重要視している「療法的」効果です。このことについては、ジョン グリンダー氏も「意識化される自己変容の過程は、特定の狭いエリアだけに限定されてしまう一方で、無意識的に起こる自己変容の過程は、(意識的な限定の制約を受けないので) 非常に幅広いエリアまでその効果がますます波及していく傾向があります」という旨のことを国内の講義中におっしゃっていたことがあります。(劇的な) 一時的な効果ではなく、永続的な肯定的変化を達成して、ますます自己成長が加速していくことが、NLP の本道的なあり方である、というのが私の意見です。)

このことは、上記の 「NLP」団体の手法とも関係していると思います。すなわち、NLP 以前のコンテントばりばりのセラピーにいくらかかっても、また元の自分に戻ってしまうことがわかったので、永続的変化を生み出すような、コンテント フリーの NLP (さらには無意識を扱うニューコード NLP) が生まれたわけですが、その「前 NLP 的セラピー」を体験してきていない日本人が、その「一時的開放感」を求め、かつそれに酔いしれたいと思う状況は、ある意味では、理解できないこともありません。

私自身は、人生の約半分を海外で過ごした「異文化コミュニケーション コンサルタント」として、欧米的な NLP と日本の NLP の長所と欠点の両方がよく見えるので、日本文化に最も合った、かつ日本人に最も必要と考えられる形で、永続的変化を生み出すような NLP ワークを、今後も続けていきたいと思っています。

(以上のことについては、参考までに、私が本メルマガ第 4 号で書いた以下の箇所を引用しておきます。

「すなわち、ロビンスはその『アンリミティッ ド パワー』 (邦訳タイトルは『あなたはいまの自分と握手できるか』のようです [最近『一瞬で自分を変える法』という訳が出ました]) で、既存の心理療法の学派は、内部に蒸気圧力が溜まってきているやかん (クライアント) の蓋を開こうとするものだと喩えています。この場合、圧力が解放されたときクライアントは気分よく感じますが、蓋が一人でに再度閉まってしまい圧力が再び溜まる度に、繰り返して 2 週間毎に同じセラピストのところに戻っていく必要があります。他方、NLP で可能なことは、ジュークボックスのメカニズムに類似しています。仮にボタン A を押したときに聞きたい音楽が流れ、ボタン B を押したときに聞きたくない音楽が流れるなら、ボタン A を押すたびに聞きたい音楽が流れ始めるように、内部配線を変えることができます。または、聞きたくない音楽が乗っているディスクを取り払って、聞きたい音楽の新ディスクを乗せ換えることが可能です。[コンテント フリーの] NLP が達成できることは、まさにこのような私たち人間の脳のプログラミングの『配線変え』というわけです。」)


3. スマートな NLP vs バタ臭いセラピー

前項にある「国内のセラピストやカウンセラーで、劇的な、情緒的な変化をクライアントの中に求める人が多い」事実に関して、最近私がある知人と交信したメール内容にかなり関連性があると思いましたので、ここに紹介させていただきます。

すなわち、私とこの知人との間で、真の自己変容を引きこすための条件は、該当の人が「完全自己放棄 (トータル サレンダー)」の用意ができているかどうかだ、という話題になったとき、自己放棄のための一番の障害は「自分のアイデンティティを否定することの恐怖」ではないかという話になりました。

(ここで極めて興味深い事実は、劇的な、情緒的な変化をクライアントの中に求めるセラピストは、おそらく、そのような「情緒的な変化がなければ、クライアントは自分のアイデンティティの殻を破れない」と (意識化されない形で) 信じている一方で、クライアント自身もそのように信じ込まされている点です。)

「自分であると信じているアイデンティティが死んでしまう恐怖」については、精神世界の導師はよく、「師匠は、用意ができた弟子を飛行機から乱暴に突き落とすが、ちゃんと『パラシュート』をつけてあげてから落とすので、弟子は絶対死なない」とか「夜虎に追われて、絶壁の崖の前に来て、しかたなしに死ぬ気で飛び降りて、奈落に落ちていかないように木の枝にしがみついてぶるぶる震えていたら、やがて、夜が明けてきて、下を見たら、何と、足と地面の間の距離が数十センチだったことがわかった」といった比喩を使っています。

「ジャンプした」後にしか「今まで後生大事にしがみついていた自己アイデンティティは『くだらないがらくた』でしかなかったことがわからない」 (= そのことは、耳年増としてはなく、ジャンプという行動を実際にしてみないと絶対わからない) というのが (鶏と卵風の) 究極の逆説のように思われます。

さらに、コンテント志向の精神分析、プライマル、エンカウンター、est 等は「自分のアイデンティティの枠を超えて外に行くためには、必ず強制的にその枠と戦って、その枠を破壊しなければならない」という間違ったパラダイムに従って、「抵抗するクライアントをさらにプッシュ」し続けたので、クライアント側もますます「抵抗」して「死ぬのは怖い」とうふうになってしまったわけです。( ここに、「成長するためには自己アイデンティティの殻を破る必要がある」と「自己アイデンティティの殻を破ることは、今の自分の死を意味する」という、論理的に解決不能な二律背反が隠されています。クライアントをプッシュし続けてそのアイデンティティを壊そうとした前 NLP 的方法論のほぼすべてが歴史的に惨めな失敗に終わったのも、まったく当然の帰結でした!) このコンテントにはまりきったやり方を、私は「バタ臭いセラピー」と形容することがあります。

一方で、NLP は、たとえば蟻地獄から「メタ = 観察者」のポジションに一端抜けさせた後で、「自分の自由意志」でその CD-ROM (アイデンティティ) に (戻りたければ) 戻ることも、他の CD-ROM を作成してそれらを適所適材に使うことも可能にしてくれる「ありえない (「アンビリバボー」な!)」認識論的ツールです。

ちなみに、この「相手の攻撃をかわす」ような NLP の考え方は、まさしく合気道そのものです。私が、コンテントフリーの NLP を「スマート」と形容するのはこのためです。

作成 2023/12/17