以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 これが本物の NLP だ!」第 7 号 (2003.12.14 刊) からの抜粋引用です。

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今回は、いったいそもそも自分のアイデンティティを変更/拡張することができるのかどうか、また、もしできるとして、自分のアイデンティティを変える必要があるのかどうかについて考察してみたいと思います。

まず第一に言うべきことは、「NLP の諸前提」 (これらは、数学の公理のようなもので、それ自体真であるかどうかは証明できませんが、NLP 体系の土台を作り上げている、一定数の「発想の転換を図る」ステートメントです) の一つに「地図は現地ではない」 (「The Map is Not the Territory.」 ) という前提があります。

(ちなみに、この前提は、NLP が考案したものではなく、一般意味論者のアルフレッド コージブスキーが提唱した NLP 以前から存在したステートメントです。)

この前提は、私たちが五感を通じて自分自身の脳に入力した、フィルター済みの情報に基づいて作り上げた独自の世界観 (NLP では「世界地図」または「世界についてのモデル」と呼ばれています) は、実際に外界で起こっている生の現実そのものではない、ということを意味します。つまり、コンピュータを使った比喩で言うと、コンピュータ システムに生のデータが入力されると、そのデータそのものがコンピュータ モニタに表示されることは不可能で、必ず、システム内の一定のプログラムによって処理された後、モニタ表示される必要があります。たとえば、音の入力が、サウンド効果ビジュアル化ソフトによってモニタ上で視覚的効果図として表示されます。たとえ入力データがサウンドで、そのサウンドをコンピュータで聞く場合であっても、入力データはデジタル化された電気信号にいったん変換された後、専用のソフトでサウンドを再生する必要があります。

この比喩を続けると、私たちは、通常モニタ (すなわち「地図」) 上で起こっていることに一喜一憂しているのであって、どのような生のデータ (すなわち「現地」) が現実に発生しているかを検証しようとすることはまずありません。ここで非常に大きな問題になりうるのは、もし異なる生データが入力されているのにもかかわらず、プログラムのせいでモニタ上でまったく同じ画像とサウンドが何度も何度も繰り返されている可能性がある点です。

たとえば、キーボードで英語入力する際に大文字と小文字の区別がありますが、場合によっては、ダイアログ ボックスに文字入力するときにすべて大文字変換されてしまうことがあります。この場合、入力時には、大きな差異のある情報が伝達されているのにもかかわらず、モニタ上ではその情報は失われています。また、サウンドをビジュアル化するソフトの場合は、モニタ上では同じサウンドのように見えても、入力時のサウンドはまったく異なるものであった可能性が存在します。(この場合は、むしろ、同じサウンドである可能性の方がずっと低いはずです。)

このため、実際に「現地」を検証して、それに基づいた最新の「地図」を更新し続ける努力を怠ると、地図を現実と思い込む、ベイツン式の「論理のタイピング ミス」が起こり、この罠にはまった人間は、ほぼ永遠に何を試みても本当に自分が欲しいものを達成できないまま全人生を過ごすように思われます。この論理のタイピング ミスによって、人間は、通常、幼いときに一度「偶発的」に獲得したアイデンティティを持続しつづけ、変更/拡張できない大きな理由になっているように思えます。

この話題に関して、実質的に NLP ナンバー スリーの立場にいるロバート ディルツが非常に興味深く、重要なモデルを提示しています。これは、『心身論理レベル』と言われるもので、この図式は、以下のようになります。

すなわち、ディルツによれば、人間が情報処理する場合に 5 つのレベルで機能しています。『心身論理レベル』と呼ばれているこれらのレベルは、低レベルから高レベルの順に、(1) 環境、(2) 行動、(3) 能力、(4) 信念と価値、(5) アイデンティティです。

言い換えると、人間は、複数の論理レベルの内的知覚または意識から成り立っていて、どの特定の瞬間においても常に、これらの論理レベルの意識のうちの一つを選択している、またはそれと自己同一化していると言うことができます。たとえば、人間がこの点に関して柔軟であるという事実は、自動車の運転、または盲人が使っている杖の例で例証できます。前者の場合、高速道路でハンドルを握ったままカーブを曲がるとき、あなたはただあなたの体ですか? 車輪をあなたの一部のように感じませんか? あなたは、自動車のタイヤと道路の間のインタフェースがまるで自分の「内側」と「外側」の境界線であるかのように感じることはありませんか? 後者の場合、盲人のアイデンティティがただその人の手までであるか、または杖の先まで拡張しているか、を特定できますか? 実際、私たちの意識は、自分の手または胃と自己同一化できる一方で、家族、会社、人種、宗教、人類等と自己同一化することも可能です。

この際最も留意すべき点は、これらの論理レベルのうち、上方にあるレベルは下方のレベルを含み、超越しているということと、上の論理レベルで起こっていることを変えると必然的に下のレベルで起こっていることが変わる一方で、下の論理レベルで起こっていることを変えても必ずしも上のレベルで起こっていることが変わるとはかぎらないというメカニズムです。

このモデルの意味合いは、『本当の自分』とは、自分がたまたまいる環境でも、幼児期に獲得した行動パターンでも、自分が習得してきている能力でも、自分が固執してきている信念でもなく、さらには、自分が自分であると思い込んでいるアイデンティティでもない、ということを認識するための非常にパワフルなモデルである、という点にあります。また、NLP 的に言って、『内容』となる下方の論理レベルの問題は、同じレベルでは解決不能で、必ず『文脈』となるそれ以上の論理レベルでの変化/操作によって解決できるというメカニズムがよく理解できます。このメカニズムは、もちろん、最近日本でも知られてきている『ブリーフ セラピー』の理論的背景にもなっています。

ちなみに、この『心身論理レベル』は、ヒューマニスティック サイコロジストのエイブラハム マズローの要求段階説とも、古代インド心理学にある『5 つの鞘』のモデルともほぼ完全な相互関連付けを行うことができます。

このように考えると、自分のアイデンティティは、絶対的に不変で、未来永劫的に持続されるべきものでもなく、何度も脱皮を繰り返す蛇のように『自由自在』にアイデンティティを変えることも可能であるということになります。(もちろん、変えたくない場合は、変える必要はありませんが。) この点に関して、イルカとのコミュニケーションとアイソレーション (隔離) タンクの研究で有名なジョン リリーが『サイクロンの目』で以下のように表現しています。

「人が真実であると信じることは、実験的、経験的に決定されるべき限界内で、その人のマインドの中で真実か、または真実になります。これらの限界こそ、超越すべき信念です。」

自分のアイデンティティを変えることができるというアイデアは、通常、解放感を覚えさせると同時に、非常に大きな不安を覚えさせる傾向が強くあるようですが、本メルマガの第 4 号で言及した、以下の私の比喩について熟考すると、この不安も軽減されるかもしれません。

「私たちは通常、自分の誕生時からこの人生ずっと同じ 1 つの古い CD-ROM (またはディスク) だけを使い続けてきているのですが、他の CD-ROM (またはディスク) との交換法がわからないかぎり、私たちは自分が見て、聞いて、感じたいと望むデータをコンピュータ モニタ上で閲覧することは決してできないことになります。すなわち、モニタ上で私たちに可能な経験の範囲は挿入済みの CD-ROM (またはディスク) の内容によって事前決定されているので、仮に CD-ROM (またはディスク) の交換法がわからない場合、または交換を望まない場合は、私たちは、モニタ上で同じ陳腐な過去の経験を永久に繰り返すように運命付けられていることになります。NLP 以前の心理療法は、いわば過去のトラウマのシーンのデータが保存されている CD-ROM (またはディスク) からそのトラウマをモニタ上で再アクセスさせて何度も何度も再体験させることだけで、クライアントが「カタルシス」を行いさえすればそのトラウマを自動的に解消できると (ほとんど「犯罪的」と言ってもいいほど) ナイーブに信じていたと言えます。一方、NLP は、トラウマのシーンのデータが保存されている CD-ROM (またはディスク) を意識的にドライブに挿入しないでおく術、または私たちが自分が見て、聞いて、感じたいと望む内的体験のデータが保存されているような複数の CD-ROM (またはディスク) を作成して、そのうち文脈に最も合った CD-ROM (またはディスク) を常に意識的にドライブに挿入できる術を教えてくれるというわけです。」

すなわち、この比喩では、この CD-ROM が私たちのアイデンティティであって、私たちは、幼児期からの一つの CD-ROM だけに固執せずに、(そう選択すれば) 新しいアイデンティティ (CD-ROM) を複数新規作成して、必要なときに使用することが可能なわけです。もちろん、(もし望むならば) 古い従来の CD-ROM も一つのオプションとして持ち続けることも可能なので、自分のアイデンティティを変更/拡張することによって、今までのアイデンティティが完全に消滅する、といった恐怖は当を得ていないことになります。

自分のアイデンティティを変更/拡張する手段としては、第 6 号で言及した各 NLP 『個人編集』テクニックが非常に有効であることが判明します。特に、『心身論理レベルの整合』と呼ばれている演習テクニックに関しては、私自身、演習参加者が演習の際非常に大きな情緒的な変化を経験しているのを何度も見たことがあります。

ところで、このように自分の環境、行動、能力、信念、さらにはアイデンティティも変えることができるということを知ると、非常に相対的な視点を持ち始めますが、この点に関して、非常に興味深い学問的研究があります。

すなわち、日本で最も卓越した文化人類学者の一人である西江雅之教授は、かつてその講義で、以下のような文化人類学の研究の結果を報告しました。

文化人類学者の研究チームがインタビューと現地調査を使って、さまざまな文明の比較研究を行いました。彼らはまず日本の学生たちに「日本の文明とアフリカのブッシュマンの文明のどちらがより優れていると思いますか? またなぜそう思いますか?」と尋ねました。

学生たちのほぼ異口同音の答えは、簡単に予想できるように、「もちろん、日本の文明です。日本人は超高層ビル、高速の新幹線、コンピュータ等を作ることができますが、ブッシュマンには可能ではありません」 というものでした。(ところで、これらの学生たちは日本人全体を指していましたが、彼らのうち誰も、これらの物を一人で作ることができないことを指摘するのは非常に興味深いことです。)

しかしながら、この研究チームは、ブッシュマンの文明も継続して研究して、その現地調査を通じて、ブッシュマンは地上に残された糞を調べるだけでキリンの群が何頭、いつ、どの方向に向かったかを言うことができることが判明しました。また、彼らは、コップ 1 杯の水で顔と体と服を洗うことができ、地平線上にある物体をはっきりと見ることができることも判明しました。これらのことすべては、日本人にはとうてい達成できないことであることは明白でした。このため、この観点からは、ブッシュマンの文明は日本人の文明より優れていると見なすことができました。

その研究の科学的な目的のために、これらの文化人類学者は、できるかぎり「客観的な」結果を生み出すために 2 万の比較 (基準) 項目を使用しましたが、該当の 2 つの文明を比較した徹底的研究の結果、1 万項目の基準に従えば日本人がブッシュマンのより「優れて」いて、残りの 1 万項目に従えば後者が前者より「優れて」いたということがわかりました。このため、これらの学者は、これら 2 つの文明のいずれも他より優れていると言うことはできない、すなわち、それらは等価であるという論理的な結論に達せざるをえませんでした。

さらに、彼らは、世界じゅうの文明にこの研究方法を適用しましたが、任意の文明 A と B を比較したときはいつも、1 万項目の基準に従えば A が B より優れていて、逆もまた真であるという同じ結論に常に到達しました。これは、すべての文明が等価であるということを意味しました。

ここで、私自身は、現代文化人類学のこの驚くべき発見を少し誇張して、20 世紀に住んでいる人々は有史以前の時代に洞穴に住んでいたいわゆる原始人とも等価であると主張したい傾向にあります。さらには、人間、動物、植物、アメーバを含めたどのような生体系も、独立した、自己統制システムであるかぎりにおいて、互いに等価であると見なされるべきであるという可能性を受け入れる傾向にあります。

このような相対主義は、NLP の大原則とも通じるものであり、さらに、実際に、NLP の諸前提の一つに「個人の内的または外的行動の価値と適切さが問題にされることがあっても、その存在価値は常に肯定的に評価される」というステートメントがあります。

私は個人的には、このような相対的視点を取り入れる最適な訓練法は、自分が育った文化とは別の文化に同化し、かつ、その文化の言語を習得することだと考えています。通常、別の言語を喋るときと母国語を喋るときは、手振り、姿勢 (行動レベル) だけでなく、能力、信念、アイデンティティも異なることを知って驚くことも頻繁にあります。

この点に関しては、日本人はかなり下手なようですが、たとえば、ヨーロッパでは、新興の元東欧の国々も含めて、ほぼすべての国で、普通に町を歩いている若者のすべては大なり小なり英語を喋れます。(一番英語が喋れないヨーロッパ人は、私の知っているかぎりイタリア人ですが、この事実は、イタリア語の母音の発音が日本語の母音に似ているということと関連しているのかもしれません。) 確かに、英語と他の欧州言語は兄弟のような言語だからヨーロッパ人は皆英語が喋れて当然だという言い訳もあるかもしれませんが、他方、私は、多数の中国人、台湾人、香港人、シンガポール人等が流暢な英語を喋るのをずっと目にしてきています。

このアイデンティティの変更/拡張に関連して、もう一点だけ言及したいと思います。

NLP FAQ (頻繁に尋ねられる質問) の一つに「NLP 演習テクニックを学んでも、どのようにその学習内容を日常生活で適用していいかわからないのですが、どうすればいいですか?」というものがあります。私自身、過去 20 年以上の欧米でのセラピーと NLP の体験の中で、このような質問をしている他の参加者に出会ったことがありませんし、私自身このようなことを思ったことが一度もないので、おそらくこの質問は日本人特有の質問であるように思われます。

この「演習で学習済みのパターンの日常生活での自動的拡散」が起こらない、というのには、2 つの理由が考えられますが、一つ目は、もちろん、ある程度まで日常生活で意識的に演習を反復練習する必要がある、という点ですが、この状況は欧米も日本もあまり変わらないと思いますので、最大の理由は、2 番目にあると思います。

すなわち、私は、過去のワークショップでその参加者に「交渉がタフな人を想像してください」と指示したことがありましたが、参加者は、その指示がわからなかったので、私に例を挙げるように求めました。私が「数年前、私は、研修講師としてある人と報酬の交渉をしましたが、その人は非常に柔軟性が欠けていて、私の要求を受ける用意がなかったので、最後にしかたなしに、私は、その人の言い値を受け入れざるをえませんでした」と例を挙げ、「これでいいのですか?」と聞いたところ、参加者は全員「それでいいです」と満足な顔をされました。

私は、ここでふと、日本人の NLP 演習参加者の方々が実際に「どのように [NLP 演習] の学習内容を日常生活で適用していいかわからない」と思う『本当』の理由は、その『how』がわからないのではなく (それほど日本人の方々に創造性が欠けているとは私には思えません)、実は、彼らが、学習済みの演習テクニックを実際の生活で適用している際に「自分は本当に正しいことをしているのかどうか自信がない」 (つまり、「安心」できない) ことにあるのでは、と思うようになりました。

ちなみに、西洋人の場合は、極端な話、「自分が行っていることしか正しいことはこの世の中にない」と思う傾向が強いので、そもそもこのような FAQ 質問自体が彼らの思考上に上がらないことにも合点がいきます。

もし仮に「自分は本当に正しいことをしているのかどうか自信がない」ことが、学習済みのテクニックを日常生活で使うことが困難である本当の原因であるとしたら、一つ関連したことで非常に興味深い話があります。

その話とは、ある方から聞いたことですが、私がこのメルマガ第 2 号で指摘した NLP がこれまで日本人に認知されていないという事実は、NLP にかぎらず、精神分析、心理療法すべてに当てはまり、これは、古代からの日本人のアーケタイプ的な無意識的パターンに基づいている、ということです。この方によれば、日本人のこのマインドは、弥生時代の卑弥呼期に中国から輸入された「怨霊信仰」に基づいていて、この信仰は、霊にたたれないように、自分たちの共同体の中では絶対に和を保ち、和を崩すことはいっさい言ってはならない、というものだったということです。もしこのようなマインドをもっているとしたら、西洋のような個人主義は生まれるはずはなく、常に主体性を共同体全体に譲り渡して、たとえば権威者と思われる人 (ワークショップの先生等) からの「自分がやっていることが本当に正しいのだ」というお墨付きをもらって「安心」する必要があることは、一応理解できます。

ただ、第 3 号で示唆されたように、西洋では、アリストテレスの「呪い」を解くのに、NLP 誕生まで 2,500 年の年月がかかったのですが、幸いなことに、日本人の方々の場合も、この万能薬の NLP を使って、卑弥呼以来 1,800 (?) 年続いている呪縛から解放されるべき時期に来ていると思われます。さもなければ、この 21 世紀のグローバル コミュニケーションの時代に、真の意味で「大和魂」を世界に知らせることなどできないと、私には思えます。

作成 2023/10/4