以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 これが本物の NLP だ!」第 2 号 (2003.10.26 刊) からの抜粋引用です。

* * * * * * *

NLP が欧米と中国系の国で大ブレークしている一方で、日本ではまだそれほどポピュラーではないことに関しては、大きく言って 2 つの理由があると私は見ています。

一番目の理由として (必ずしもこの理由の方が 2 番目の理由より重大であるというわけではありませんが)、語学的な理由があると思います。

つまり、NLP は、前号でも示唆したように、数学の公式や英語等の構文 (構文とは、主語+動詞、主語+動詞+目的語等の、いわゆる五文型のことです。NLP と英語の非常におもしろい関係については、次号以降で独立のトピックとして扱います) と非常に密接な関係があり、論理性が極めて重要視されるので、どの文章も論理的に必ず五文型で解析できる英語および類似の西洋言語を母国語として喋る人々にとっては、たとえその人が意識的に母国語を常に五文型で解析しながら喋っているわけではないという事実があるにしても、NLP は彼らの頭の機能のし方に非常に合っているということが指摘できると思います。

一方で、私は個人的には、日本語は非常に曖昧な言語であると思います。日本語の文章自体を非常に論理的に構文解析することは、不可能でないにしても、英語のように容易にできるとは思われません。この言語の曖昧さについては、約 20 年前に世界的に著名な言語学者の故川本茂雄教授が大学の講義で説明されていたことを思い出します。

同教授は、今後どれだけコンピュータが発達したとしても完全な翻訳機械はできない、と断言し、その主張を擁護するために 2 つの文章例を挙げました。一つ目は「象は鼻が長い」の主語は何か特定できない、という例であり、もう一つは「彼女は私が好きだ」という日本語を英語で「She loves me.」とも「I love her.」とも訳せるという例でした。

この 2 番目の例は少し複雑で一見詭弁じみているかもしれませんが、この文章は大部分の状況では確かに「She loves me.」の意味ですが、ごくまれな特殊な状況で、たとえば、「この車は、あの人ではなく、私が好きだ」といった日本語の文章が可能であり、同様に「彼女 (のこと) は、(あの人ではなく) 私が好きだ」、つまり「I love her.」という意味にもなりえるというのが川本教授の解説でした。

また、日本語では会話の文章、書かれた文章とも主語がほぼ常にといっていいほど非常に頻繁に省かれますが、このようなことは西洋言語では考えられません。確かに古語のラテン語や現代のスペイン語等では主語を省略することも不可能ではありませんが、動詞が主語に応じて活用変化するので、主語がない文章でも主語が含蓄的に表現されています。そのような含蓄的な論理性さえ日本語には欠けていると言えます。

ちなみに、このような語学的な論理性の曖昧さは、共同体所属意識に重きが置かれる日本文化と個人主義の傾向が著しい西洋文化の違いを象徴していると思われます。

私は昨年まで英国に 15 年以上滞在していましたが、確かに、日常生活で、常に、喋る文章一つ一つの合間に私の名前を呼ばれたり、また頻繁に相手の名前を呼ぶことを期待されたり、常に「誰が誰に対して何をしたか」を語学的に明確にする必要のあることは日本人の私にとってはかなり疲れることでしたが、しかしその一方で、テレビのニュースなどで、町を歩いている普通の人々にインタビューすると、まず例外なくどのような人も皆、初めから終わりまで滞りなく、間投詞も少なく、論理的に自己表現できる能力をもっていることには驚愕させられました。日本のテレビでの街頭インタビューを聞くと、自分の独自の意見を述べられる人々は少ないし、「ええっと」といった間投詞が頻繁に使われ、さらに最近では「ちょっと」とか「~といった感じで」といったまったく意味のない、表現を曖昧化する機能しかない言葉を多用することが大きな流行になっているようです。

私自身、西洋崇高主義のつもりはなく、むしろ文化人類学的な相対比較主義者ですが、この日本人の言語と思考形態の曖昧さだけは、少しでも改善した方がよろしいのではと日本人の方々に進言したいと思っています。もちろん、この島国の中だけで生きているのなら私の助言は完全に無視すべきだと思いますが、今はもう 21 世紀のグローバル情報化時代であり、国際舞台では、アメリカを追従するだけの、自分の意見をまったく表現できない国民という残念な刻印が捺されてきている状況を打破し、汚名を返上して、さらなる国際化/情報化の方向性に貢献したいと思うのであれば、私の助言も少しは聞き入れられるのでは、と願っています。

近年、スポーツ界では、日本人のサッカー選手や野球選手が本場の国々で活躍して、すでに脱「井の中の蛙」状況が起こっていますが、この流れを政治的、経済的、文化的にさらに推し進める必要性があると私は主張したいと思いますが、非常に逆説的なこととして、考え方が論理的ではない日本人が NLP を学ぶことにより、逆に論理的思考が身に付き、論理的に母国語と外国語が喋れるような訓練をすることができる、と私は強く信じています。

付言として、香港や台湾で NLP が非常に広範に受け入れられている理由は、英語と中国語の文法的および統語的類似性にあるようです。いずれにしても、アジアの国々で英語が一番下手な国民は日本人のようですが、NLP を学ぶことで語学学習を飛躍的に伸ばすことができる、と聞いて学習向上心をもたれる方々もいるのでは、と願っています。

さらに、実は、NLP の本は一般的に英語で読むとかなりわかりやすいのですが、他方で、曖昧な言語である日本語に訳されると、論理的な表現が日本人読者のマインドにあまり馴染まない、という事実も、NLP がまだ日本でブレークしていない一因になっているかもしれません。

結論としては、もし西洋人と対等以上に渡り歩くことを目的に、論理的思考を短期間で身に着けたい、あるいは論理的な語学学習能力を飛躍的に伸ばしたいと思っている日本人の方がいたら、右脳を有機的、全体的にコントロールできる左脳志向の方法論として NLP を心からお勧めしたいと思います。

NLP が日本でまだ大々的に知られていない二番目の大きな理由は、日本にはセラピーの歴史がなかったということだと思います。

西洋では、キリスト教文化圏として、教会の懺悔という伝統が何世紀にも渡って続いてきていますが、この伝統では、罪を犯した人が薄暗い告解室に入って「見知らぬ他人」としての神父さんに「匿名」で秘密を暴露することが、言ってみれば美徳として見なされていたと思います。20 世紀に入って、非常に賢いシグモント フロイトがこの既存の伝統の神父さんを精神分析家に置き換えたので、あれだけ精神分析が西洋で流行ったわけです。20、30 年くらい前までは、たとえばニューヨークで、精神分析家に何十年かかりつけになって、何千万円払ったと言えることが、高級車を所有する以上の社会的ステータスが獲得できるまで精神分析は上流社会を凌駕した感がありました。ちなみに、この事実は、NLP 的には、該当の分析家がプロとしてクライアントの問題解決に関してまったく無能であったということを意味するにすぎない、と付言することができます。

その一方で、いわゆる「恥の文化」をもつ日本では、セラピーを受けるということは、ほぼ質屋の暖簾をくぐるのと同じくらいタブー視されてきました。最近この傾向は改善されてきているとは思われますが、しかし、心理療法、セラピーの認知度、受容度は未だに、西洋と比べると極めて低いことは否定できない事実です。そういうわけで、当初セラピーの代替学派として 1975 年に米国カリフォルニアで生まれた NLP も、一般の日本人には受け入れがたいものと写るのも当然と言えると思います。

しかしながら、NLP は、1980 年頃を境にしてさらに汎用性のある一般コミュニケーション心理学に完全変容していますし、また、前号でも述べたように、NLP はコンテント フリーで、クライアントは問題の詳細を一切喋る必要はなくなっているので、NLP は日本人にとって「初めて受け入れられるセラピー」であると同時に「最後の打ち止めとしてのセラピー」であると言えると思います。ただ、このような NLP の革新性は、1950 年代くらいから台頭してきた現代心理療法の試行錯誤をある程度以上経験した上で認識できるものなので、そのような NLP の「ありがたさ」は、従来のセラピーをスキップして NLP を学習する人々には認識できないかもしれません。(認識する必要もないかもしれませんが。) NLPがどのように従来の西洋心理療法すべてを統合、超越したかは、次号のトピックで触れたいと思います。

以上、NLP が日本でまだ特にビジネス界等で広範に知られていない主要な理由として 2 つ挙げられましたが、もう一つ、今まで日本には NLP は一つ一つのテクニック、モデルとしては紹介されてきているが、もしかしたらその各テクニックを貫いている NLP の原則、哲学、存在理由 (レゾン デートル) が日本の市場に伝わっていなかったのではないかという事実が三つの目の理由として挙げられるかもしれません。これは、ひょっとしたら NLP を教える人々の側の教え方に問題があったかもしれないと、私は感じています。

もちろん、このような大胆な「恥知らず」の指摘は日本の NLP に関わっているプロの方々にとって失礼極まることではありますが、次号で、まだ日本に紹介されていないと私が理解している NLP の原則、哲学、存在理由について私なりに述べさせていただきますので、私の指摘がまったく的外れかどうかの判断を読者の方々一人一人に任させていただきたいと思っています。

作成 2023/9/29