以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 139 号 (2010.3.12 刊) からの抜粋引用です。

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今回は、「北岡新 NLP FAQ、その二十九」のトピックがカバーされています。


1) 北岡新 NLP FAQ、その三十

Q69 (139): 先日、一日「コミュニケーション スキルアップ ワークショップ」が開催され、3月 23 日から「コミュニケーション スキルアップ イブニング ワークショップ シリーズ (5 回)」が開始されるということですが、このワークショップについてコメントしていただけますか?

A69 (139): 本ワークショップの概要は以下の通りです。

「このワークショップは、今までのコミュニケーションをさらに進化させる新しいテクノロ ジーとして、西洋心理学の最先端であるNLP (神経言語プログラミング。特に、NLPの「環境、行動、能力、信念、アイデンティティ」の5つの「心身論理レベル」モデル) と日本古来伝わる「一霊四魂」を組み合わせた画期的なコミュニケーション手法です。講師は、NLPトレーナーズトレーナーの北岡泰典と四魂カウンセラーの 吉田光男です。相手の世界が解り、ほとんどの人とコミュニケーションが上手にできるようになれます。自分や相手を悩みから解放できる能力が身に付きます。 本当に自分のやるべきことを発見できます。知識としてではなく、まずは体験してみてください。すると自分の行動が変化し、自分の仕事で結果が出始め、人間 関係に変化が出てきます。」

3 月 7 日には一日ワークショップが開催され、3月 23 日から「コミュニケーション スキルアップ イブニング ワークショップ シリーズ (5 回)」が開始します。

一日ワークショップでは、四魂カウンセラーの吉田氏が提唱するコンテンツを北岡が「モデル化」する手順が取られました。

たとえば、神道系では、魂を「勇」 (行動派)、「愛」 (愛情派)、「智」 (知識派)、「親」 (調整派) の四つのタイプに分け、これを統合するものとして「省」 (内省派) というタイプを置きますが、私は、拙訳『Magic of NLP』の分類に基づいて、この 5 つのタイプと「VAKD (視覚系、聴覚系、触覚系、デジタル系)」および「メタ (観察者)」の 5 つのカテゴリーと融合させることができるのでないかという提案をワーク中にさせていただきました。

さらに、NLP 創始者のジョン グリンダー氏は、「VAK の優先表出体系に固執するあまり、いったんある人をたとえば視覚型と分類したら、一生その型でとどまると信じるのは極めて危険である」とおっしゃっていま すが、このような分類分けは、あくまでも、一定の時間または期間内におけるある人の傾向を取り上げているにすぎないので、四魂に関しても、生まれてきたと きから形成された「性格」で、変化しないというふうに考えるのは危険であり、ある一つのタイプにとどまるというよりは、四魂を見ている「省」にいつでも抜 けることができる柔軟性をもつことが重要であることを示唆させていただきました。

また、この「四魂」のモデルは、「ホット (情熱的) vs クール (冷静的)」の横軸と「ドライ (合理的) vs ウェット (情緒的)」の縦軸を元に、「ホット/ドライ = 勇」、「ホット/ウェット = 愛」、「クール/ドライ = 智」、「クール/ウェット = 親」という分類分けを行っていますが、私は、これらの両軸の分類ツールは、「向かう/逃げる」、「マッチ/ミスマッチ」、「同時的/通時的」、「詳細/一 般」、「能動的/受動的」というふうに、人間の行動パターンを分類するときに使う NLP の「メタ プログラム」 (下位のプログラムを支配している上位の基本的プログラム) 群の二つにすぎないことが私によって指摘されました。

もちろん、四魂のモデルは、これらのメタプログラムのごく一部を非常に詳細に論じて、突 き詰めているという点では、多大な価値がありますが、同様に上記のメタプログラム (上述の 6 つ以上に、まだまだたくさん存在しえます) を組み合わせることで、さらに詳細な、もしくは適切な人間行動モデリング法が確立することを示唆しているにすぎないのも事実です。

いずれにしても、四魂モデルは、「地図は土地そのものではない」ことを念頭から忘れないかぎりにおいては、有効性は高いと思われます。

ちなみに、このワークショップの後、ある方から「私自身の教え方は、ワーク参加者に考え させる方法を取りますが、先生の方法では、『すべてを語って』しまいますよね」という「批判」を受けました。私自身、この方のワークを見たことがあるので すが、いわゆる NLP の「名詞化」 (日本語の「抽象名詞」とほぼ等価です) を多用されるワークをしており、あるとき、大義名分的な言葉を提示されたとき、ワーク参加者から「それは、ご自身にとって何を意味するのですか?」という 「メタモデル」的な質問を受け、その答えとして、非常に生活に根付いた具体的なことが意味されていることが判明したので、私はこの方に以下のような意味合 いのことを伝えさせていだきました。

「確かに、私は、ワーク参加者から質問を受けたとき、自分自身の参照機構に基づいて、私 が『的確』であると思う答えを即座に、詳細に答えさせていただいていますが、これは、私の答えそのものが最終的な目的であるのではなく、その向こうに伝え たい『意図』があるからです (言ってみれば、私は、自分の指で月を指し示しているのであって、見てほしいものは私の指ではなく、あくまでも向こうにある月です)。ここで、『水平的思 考者』が私の話を聞けば、単に『ああ、これは私には無関係だ』で終わりますが、同じ話を『垂直的思考者』が聞けば、私が自分の具体例で示唆している目に見 えない『意図』を理解し、その意図から自分自身の過去の経験 (参照機構) に落とし込んで理解しようとするので、ありとあらゆる洞察が起こり始める可能性があります。あなたの『抽象的な教え方』では、もしかしたら、その話を聞い ている方が、あなた自身が言わんとしていることとあなたの実際の経験との間につながりを感じず、その方とのラポールが切れてしまう可能性もあるのではない でしょうか?」

この私の指摘に対しては、ご本人からは「なるほど」という返答をいただきました。

ちなみに、この点は、最近のメルマガでも示唆したと思いますが、ある人が文章を書いた り、しゃべったりするとき、自分自身の参照機構に基づいてそうしているときは、受け手の人間にもメッセージがそのまま通りやすいが、自分の参照機構と切り 離されたメッセージを送っても、受け手には「現実感」をもって受け取られない、という図式と密接な関連性があるように思われます。

さらに、ここに、私のワークは、どのような業種であれ (私は、士業であれ、ビジネスマンであれ、ミュージシャンであれ、極端に言うと、ホームレスであれ、何でもいいと言っています)、その道で試行錯誤を繰り 返し、参照機構が豊富であればあるほど、それだけますますおもしろく、目から鱗が落ちるものだ、と主張してきている根拠の一つがあります。

いずれにしても、上記のことで、私のワークは「左脳的」とも「デジタル」とも形容することは不可能で、逆に、自分を「右脳的」と形容している他の方々のワークの方が、場合によっては、よっぽど左脳的またはデジタル的であることが判明するのは、極めて興味深い逆説ですね。


Q70 (139): 「唯物論 vs 唯心論」について語っていただけますか?

A70 (139): 「唯物論」と「唯心論」を語ると、心身二元論を語ることになるので、心身を超えた「Meta Mind Work」を提唱している私としてはこの質問に答えることで不必要な誤解を引きこしそうですが、心身のいずれかに強調を置くかの「傾向」にすぎないという 前提の下で、以下の返答をさせていただきたいと思います。

私自身、高校時代までは、極度の「唯物論者」でしたね。当時、アナーキーな学生運動に参 加していましたが、自分を「Iconoclast (因習打破者)」として自己定義して、とにかく目に見えるものしか信じない人間でした。「神」といった概念は、ご法度中のご法度でしたね。

私のこの唯物論的志向の度合いと自分の「神経症と精神病の間のボーダーライン症候群」の度合いは比例していたように思えます。

大学時代は、私の唯物論者から唯心論者への移行期でしたが、プルーストの『失われた時を求めて』を原書で読んだり、フランス語で学士論文を書いていた当時は、「頭でっかち」さはピークを迎えていましたね。

私が「唯心論」に方向を変えたのは、間違いなく卒業と同時に赴いたサハラ砂漠での体験で した (このことから、私を、お金の心配のない御曹司だったと、完全誤解されていた方が過去にいましたが、事実は、私は、アフリカ北岸でフランス語通訳を通算 3 年間していた次第です)。そこでは、砂漠の瞑想や「化学的に誘発された変性意識」の体験もありましたし、また、その後弟子入りすることとなるインド人導師 の本 (日本語でしたが) を初めて読んだのもこの砂漠でした。

その後、1983 年に米国西海岸でインド人に弟子入りした後は、私の唯心論者への変容は完了した、と言っていいと思います。その後、瞑想と「化学的に誘発された変性意識」を通じて、私は「神秘主義者」へとさらに変容していったと自己規定できるかと思います。

その後、私は NLP を使って、自分の神秘主義性を「極めて」来ているつもりですが、この方向性と「単なる方法論」である NLP の間には何らの矛盾も見出して来ていませんし、むしろ、親和性は極度に高い、と考えています。

そのことを象徴することとしては、NLP 共同創始者のジョン グリンダー氏は、よく「私は、純粋な認識論者である。私は、有神論者でも無神論者でもない。私は、自分の世界地図 (「マインド」と等価です) の外に何があるかについてはいっさい口を噤む。私が語れることはこの私の世界地図だけである」とおっしゃっています (ちなみに、ここに、極度に左脳的なことをしゃべれる人間が、同時に極度に右脳的になりえるメカニズムが隠されているように私には思えます)。

その意味では、グリンダー氏は「神秘主義的認識論者」ですが、私は、マインドの外にある「何か」を、私の神秘主義的な師匠であるシャンカラチャリヤに習って、肯定的に提唱しているという意味において、自分を「認識論的神秘主義者」と自己形容することがあります。

グリンダー氏と私の立場のこの補完的な形容語を同氏に伝えたところ、同氏は、まんざらではないお顔をしていました。

ちなみに、NLP をまともに学びたいのであれば、催眠系のミルトン H エリクソンはもちろんのこと、認識論系のグレゴリー ベイツンを落とすことは不可能です。ベイツンの本の訳書は存在しますが、本格的に学びたいのであれば、英語で読むことが必須となります (最近、ある方が、以前翻訳で NLP の本を読んでもピンと来なかったが、英語で読み始めたら、かなり理解でき始めた、とおっしゃっていましたが、私は (自分自身の翻訳書の事例も含めて) この方に「完全同意」します。また、日本では、英語での勉強となると恐ろ恐ろしく聞こえますが、欧米の国々では、ごく当たり前のことであることも追記して おくべきですね)。

さらに、私の意見では、ベイツンの先では、その師であるバートランド ラッセル (特に、アルフレッド N ホワイトヘッドとの共著である「Principia Mathematica (数学原理)」 (1910 年~1913 年) ) を研究する必要があると思います。さらにその先には、17~18 世紀のロック、バークリー、ヒュームの「イギリス経験論者」を遡及的に研究する必要があると思います。

正直なところ、私自身、ラッセルやイギリス経験論者 (さらに言えば、「地図は土地ではない」の金言を使い始めた一般意味論者のアルフレッド コージーブスキー等) を完全に研究したとは言えない状態ですが、すでにこの状態で「先生の教え方は難しい」といった反応が国内にあることは、ではこれ以上研究したらいったいど うなるのか、なぜ国内の人々は「広く浅い」志向性があり、「狭く深く」ものごとを極めようとはしないのか、という思いにますます駆られてしまう次第です。

作成 2024/2/13