以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 138 号 (2010.3.6 刊) からの抜粋引用です。

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今回は、「北岡新 NLP FAQ、その二十九」のトピックがカバーされています。


1) 北岡新 NLP FAQ、その二十九

Q67 (138): NLP を始めとする「自己啓発」系の方法論の場合、クライアントが「変化することに対する苦痛」があると思います。このことが NLP を学ぶ際の「抵抗」になっているとも思えるのですが、この点についてコメントをいただけますか?

A67 (138): 確かに、NLP 以前のプライマル、エンカウンター、ゲシュタルト、エストといったセラピーでは、ファシリテータがクライアントに対して、(今の自分を超えて新しい自分に 飛び込ませる目的で鼓舞するために) 「プッシュ! プッシュ!」」と叫んだ図式が思い浮かびますが、これらのクライアントは、ほぼ例外なく、いわゆる「自我の死」の恐怖のために、「一時的」には症状改善が あったとしても、またいつのまにか「心地のよい」過去の自分に戻っていったことが必然だったことも改めて想起されます。この意味では、変化を促す方法論と しては、「前 NLP の方法論」はことごとく失敗に終わったと結論付けてもいいと、私は個人的に考えています。

(ちなみに、日本に輸入されてきている「エンカウンター」は、ほぼ海外の原型をとどめて いない、希釈に希釈を重ねたソフト バージョンと言っていいと思います。私がこの方法論に欧米で触れたのは、80 年代初めですが、60 年代、70 年代の欧米の本格的なエンカウンター グループでは、まずワーク参加前に参加者は「私の鼻が折られても、私は相手を訴えません。仮にワーク中に私が死んでも、私の家族は訴えません」といったこ とを一筆書いて署名した上で参加したと聞いています。ワーク中は、参加者は、選んだパートナー相手に自分の親等を投影して、ガチンコで、本気で殴りあった ようです。そこまでやっても、結局、何らの永続的変化も達成されなかったという真摯な反省から NLP が生まれているというのが、私の歴史的認識です。)

一方で、NLP では、クライアントに変化を強要することは「いっさい」ありません (もし変化を強要する目的で NLP が使われているとしたら、それは似非 NLP 以外の何ものでもないです)。

つまり、NLP では、今までただ 1 枚の CD-ROM (= 行動選択肢あるいは「アイデンティティ」) だけをもって、同じパターンを永遠に繰り返してきていたクライアントが、もっと CD-ROM の数を増やして、自分の行動選択肢の数をもてるように支援するだけです。さらに、もし仮に新しく獲得された CD-ROM が何らかの理由でうまく機能しないとき等には、それらの CD-ROM の使用を直ちに止めて以前の CD-ROM に戻ることを否定していないので、前 NLP の方法論がそうであったように、「今のアイデンティティを失う = 自我の死」といった問題はいっさい起こりえません。

上にある「それらの CD-ROM の使用を直ちに止めて以前の CD-ROM に戻る」ことの意味合いは、興味深いもので、これは、コンピュータ システムを更新した後、何らかの問題があったときに、更新前の復元ポイントに戻るようなものですが、この機能のおかげで、私自身、80 年代終わりからの 7 年間の NLP の徹底的自己適用 (1 日に 10 個のテクニックの練習) の際に、ありとあらゆる心理的実験を行うことができました。(つまり、どれだけ荒治療的な実験をしても、少しでもやばいと思ったら、即、それらの新しい実 験を中止して、「安全な復元ポイント」に戻ることができた、ということです。ちなみに、ここに、NLP は、ほぼすべて、人の力を借りずに、自分一人で自己適用し続けていくことが可能であり、また不必要な危険性は存在しない、という私の絶対的確信の根拠があ るようです!)

このように、NLP は、クライアントにどのような変化も「強要」しませんし、変化するときの苦痛もありませんが、クライアントが実際に変化するかどうかは、クライアント次第 です。エリクソンは、「クライアントがセラピストのもとに来る唯一の理由は、その人の意識と無意識の間にラポールが欠如しているからだ」と言ったとされて いますが、永続的な変化は、意識的に変化を求めるだけでなく、意識と無意識が共同で同じ変化を求めるときだけ可能になると、私は考えています。このため、 たとえば、子供が親にセラピーに「むりやり」連れられてきた場合、本人の意識はいやいやでも、実際に自分の体が来ているわけだから、それは子供の「選択」 で、本人の内的コントロールの範疇に入る、という考え方をしている「選択理論」等に基づいた変化の促進は、どうしても強要された変化、すなわち一時的な変 化を生み出すだけのように思われます。

このような「真摯に変化したい」と思うようになるための鍵として、バンドラー著の最近の本に興味深いことが記されていました。

すなわち、バンドラーは初期の頃、心理学者は人間の頭の中で何がうまくいっていないのか についての研究に終始していることに彼自身辟易して、何がうまくいったかを研究しようとしました。このとき、同僚の心理学者とセラピストに、慢性的なパ ニック症、恐怖症をもっていた人で、何らかの理由で「自然治癒」した人がいれば、彼のもとに送ってくれるように依頼しました。その後、このような人々が何 人か彼のもとに送られてきたので、「どのようにパニック障害から自分一人で抜け出せたか」についてのモデリング研究をしました。その結果、自然治癒者には 以下のような共通点があったことが判明しました。

1) 今の自分の症状がいやでいやでたまらず、「もういいかげんにしろ」とまで思うようになった。
2) そのあげく、自分自身を分離して (「部外者意識」をもって)、悩んでいる自分自身を外から眺めることができるようになった。

ということで、変化に苦痛をもったり、抵抗する人がいたとしたら、その人は、そもそも、まだまだ自分自身の状況に関して「絶望しきっていない」人なのかもしれません。


Q68 (138) NLP を学ぶ側が NLP を習得し、自己成長、自己変容していくために、先生自身は、学習者にどのような教え方ができますか?

A68 (138): この質問は、実は、つい先日 の「北岡ワーク説明会」で参加者から尋ねられたものですが、実に興味深い、目の付け所がユニークな質問かと思いました。やはり、説明会とあって、私の今後 のワークに参加することを決定されるための基準として、他にも尋ねられた、「他の団体の教え方との違いは何ですか?」という質問と合わせて、コミットメン トのある方の質問のし方は違う、と思った次第でした。

この質問については、私は、若干「過激」だったかもしれませんが、以下のように答えさせていただきました。

私は、NLP の教える側がどうであれ、教わる側にいくつかの条件があると思っています。それらは、以下のものです。

1) FAQ67 でも言及したように、自分自身が絶望するくらいまで今のボックスから出たいとい欲求
2) 自分が欲している成長、変化が得られたら、すべてを捨ててもいいと思うほどのコミットメント
3) 自分は、自己成長し、人にも教えることができるようになる人材だと思い込む「大いなる勘違い」

これらの条件が整っていれば、極端な話、まったく実力のない似非教師の下についたとしても、その人は、将来的に伸び、大成功することは間違いない、と私は考えています。

一方で、教師の側から何ができるかという質問については、私は、日本的な、「5 + 2 = □」というふうに、型にはまった一つの手順でしか思考しないような教え方、手取り足取りの指示法、教師の質問について、教わる側が教師の頭の中にすでにあ る答え以外の答えをすることは間違っていると思うように「洗脳」されている教育法、といったものは、国内の人々の学び方に合っているので、確かに「受け」 はいいでしょうが、結果的に、数十万人のニートを作り出してきているという意味で、完全崩壊していますので (ちなみに、Q68 の質問者は、ニート族の誕生の原因は団塊の世代にあるという私の意見に同意されていたようで、この意見は私だけのものではないと、再認識した次第でし た)、私は、これらの教育法とはまったく逆の方法を取ることにしています。

具体的には、私の方法は、自分自身で考えさせる「放任主義」的教え方です。個人的には、この、教える側との「放任性」と教わる側のコミットメントがぶつかれば、すばらしい「核融合」が起こると私は確信しています。

いずれにしても、私は、馬に水を飲ませるために、美味しい水のある川辺まで「誘導」できたとしても、実際にその水を飲むか飲まないかは、その馬自身が決定すべできことなので、その辺の「人心操作」は私はいっさいしませんね。

実際、先日の説明会を含め、ワーク参加申込書へのサインの強要はいっさいしたことがな く、常に「よく考えてください」とお願いしています。これは、私の最大のアウトカムは、これだけすばらしい方法論を、できるだけルーツに近い形で忠実に国 内の皆さんに伝え、皆さんの自己変容と自己成長を促進したいということにあり、一人でも多くの人を勧誘したいという利益追求意識にはないからです。

作成 2024/2/12