以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 131 号 (2010.1.22 刊) からの抜粋引用です。

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今回は、「北岡新 NLP FAQ、その二十二」のトピックがカバーされています。


1) 北岡新 NLP FAQ、その二十二

Q53 (131): 北岡先生は、よく、「左脳的知識」、「右脳的知識」という表現を使っていると思いますが、この表現と「デジタル」、「アナログ」の表現との関連性を説明してください。

A53 (131): これは、極めて興味深い質問です。

まず第一に、以前よく言われていた「左脳半球」と「右脳半球」の機能役割分担については、最近の研究では否定されてきているようですが、私は、「論理的 (または意識的) 思考機能」と「直感的 (または無意識的) 思考機能」といった傾向的な対比の意味で、「左脳的知識」と「右脳的知識」の表現を使っています。

(要は、「傾向」を扱っているわけですが、同じことが、「メラビアンの法則」についても言えるかと思います。これは「話の内容などの言語情報が 7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が 38%、見た目などの視覚情報が 55% の割合で、人間の行動が他人に影響を及ぼす」ことを発見した法則ですが、最近の研究では、当初の研究者自身によってこの数字自体が否定されてきているようです。

私自身、これらの数字は、傾向を表すものとしては、非常に有効なので、頻繁に参照してきていますが、別に私にとって、仮に 38% が 36%、37% であっても、39%、40% であっても (元々の研究の信頼性が揺らいでいる以上) 「どうでもいい」ことなのですが、中には、私のこの点に関する「いい加減さ」を許容できない方々もいらっしゃるようです。私には、このような「どうでもいい」現象界の事象をもとに「イデアの世界」の理想性を読み取ろうとすることが、本メルマガの前号の FAQ51 で言及した「水平的思考 vs 垂直的思考」の垂直的学習の第一歩だと思われるのですが。)

第二に、世間では、どうも「デジタル人間」と「左脳的人間」の区別ができない人々があまりにも多くいるように思われます。

私にとって、「デジタル人間」とは、VAK の五感の世界に生きず、抽象的な言葉の世界に生き、いわば「首から上だけ」で生きている人々です。逆に、五感の世界に生きている人々は「アナログ人間」だと定義できます。

たとえば、大学時代、フロイト式の「存在しない過去のトラウマの原因」を追い求め、その結果、プルーストの『失われた過去を求めて』をフランス語で読破するほどの人間だった私は、まちがいなく、デジタル人間でした。

ただ、その後、サハラ砂漠に 3 年間滞在し、日本人のボックスから出るべく、座学の外国語ではなく、実際に通用する外国語を駆使しながら、欧米に 20 年近く滞在し、最終的に、「ありとあらゆる左脳的知識の右脳的体験への落とし込み方」を私に教えてくれた NLP を知った後の私は、左脳的人間と形容することはできたとしても、いかなる意味でも「デジタル人間」ではありません。

私は、現在は、「アナログ的左脳人間」と自己定義できるかと思います。

ところが、国内では、たぶん、以下の、本メルマガの第 128 号で指摘した形での「左脳的人間」の存在に、参照機構として出会ったことがないことを主な理由として、「左脳的人間」は即「デジタル人間」であると思い込む、非常に危険な事実誤認の風潮が蔓延っているようです。

「特に、グレゴリー ベイツンについて言えば、あるとき、変性意識の研究の一環として『LSD セッション』を行ったのですが、セッションのガイド役の人と美しい薔薇の花を『右脳的』に経験するということが要求されていたのですが、ベイツンは、そのセッションの目的を外れて、『左脳的』な、哲学的な難解な説明を薔薇の美について延々と語り始めました。もちろん、ガイド役の人は、ベイツンに『すみません。この時間は、左脳を止めて、右脳的に現実をあるがまま体験する時間です』と注意したところ、ベイツンは逆に『黙れ! あなたには、この薔薇の花がこの美しさを達成するまでに、いったいどれだけ多くの何百万という思考が必要であったかということが見えないですか?』と一喝しました。

すなわち、ベイツンにとっては、マインドの進化と自然の進化はまったく等価であり、そこに (人為的な) 線引きをしてしまうのは、究極的な左脳の分析の美しさを理解できない、右脳オンリー志向の『現実逃避派』であることの証明であると思われます。」

ということで、ある場所で、ある方が「北岡さんの教えていることは、非常に左脳的 (この方は、「デジタル的」の意味でこの語を使ったと解釈すべきだと思いますが) ですが、私の教え方は右脳的です」と言いながら、プレゼンを行いましたが、私の見るところ、そのプレゼンは「名詞化」のオンパレードで、これほどデジタルな教え方はないと思えたのは、極めて逆説的でした。

さらに言うと、私には、「デジタル的右脳人間」も存在しうると思います。この人々は、たとえば、過去にもった感覚、感情を、今の体で起こっているという理由だけで、それらと自己同一化してしまって、「今ここ」に起こっていることを充全に感じることができなくなっている人々と定義できるかと思います。

結論として、誤解を恐れずに言うと、人間として目指すタイプは、以下のように順序づけられるかと思います (上の方が上位概念です)。

1) アナログ的左脳人間 (左脳的知識を体感覚に落とし込められる人々)
2) アナログ的右脳人間 (今ここの瞬間を直感的に生きている人々)
3) デジタル的右脳人間 (過去の感情、感覚に捕らわれている人々)
4) デジタル的左脳人間 (座学だけの、首から上の人々)

私は、どこから見ても、「座学だけの、首から上の人」ではなく、「(ものごとを) 左脳的に説明でき、(他の人々に) 右脳的に体感させることができる」人であると自負していますが、「左脳的」というだけで、アレルギー反応を示し、私と私が「体感覚的」に教えている NLP を「デジタル」であると信じ込んでいる人々が数多くいるという事実は、そういう人々の大半は、実際に私のワークを受けないまま、そう信じているという、まさにデジタル人間的発想に陥っているという意味で、極めて、極めて、興味深いことです。

ところで、一点だけ付記すると、私にとって、外界から入ってくる入力を受け取る「感覚器官」も、内的な主観的世界を構築する「シナプス」も、同じ生物学的/化学的反応に基づいています。(ここでは、感覚器官は右脳的体感覚、シナプスは左脳的精神機能に対応していると見なされるべきです。)

シナプスに関しては、「驚愕的な」 CG 画像 (http://www.creativity.co.uk/creativity/jp/magazine/images/synapses.jpg) がありますので、以下に挿入することにします。

私にとっては、上記のベイツンの逸話が示すように、「感覚器官」も、「シナプス」も、両方とも、「今ここ」で起こっていることが継続的なトリガとなって体内に化学反応が引き起こされ続けるかぎりにおいて、「アナログ」の領域に属するものです。トリガが「今ここ」で起こっていることでない「仮想現実」の場合は、おそらく、五感の世界に基づかない化学反応の連鎖が永遠と繰り返されるのだと思われます。この状態を私は「デジタル」と呼びたいと思います。


Q54 (131): 「過去の問題」と「現在の (= 現在実際に起こっている) 問題」とにはどのような違いがあるのでしょうか?

A54 (131): この質問は、FAQ53 と密接に関連していると思います。

まず第一に、NLP は、既成概念を完全に取っ払う「革命的」な認識論であることは忘れてはいけないですね。国内外では、ある決まった考え方 (つまり「コンテンツ」もしくは「ボックス」ということになりますが) を押し付けるために NLP が教えられている場合があると思いますが、そんなものは「似非 NLP」と判断しても、まず間違いはないですね。

「本物の NLP」は、いっさいコンテンツまたはボックスを押し付けず、それがどのようなものであれ、自分が今もっているコンテンツまたは入り込んでいるボックスからの「抜け出し方」の純粋な「プロセス」を教えてくれるものです。

ということで、本物の NLP によれば、文字通りに「すべて」の問題は過去 (前項でいう「デジタル」または NLP のいう「4Ti」の世界) にしかなく、(「アナログ」または「4Te」の世界である) 「今ここ」の瞬間には、いっさい問題はありえません。

実は、このことを体感的に経験することが、本物の NLP を実践していることであり、「頭ではわかっているが、しかし…」という人は「似非 NLP」の実践者ですね。

思うに、問題 (文字通りすべての問題) は「幻想」であることは、以下のよう多種多様な認識論的観点から証明されている、というのが、私の立場です。

1) 見方を変えれば問題は問題でなくなる (NLP の「リフレーミング」テクニック)。
2) 単に、ある見方が永続化してしまって、現実 (問題) のように見えているだけである (カルロス カスタネーダ)。
3) ありとあらゆる問題 (的症状) には肯定的意図があり、その肯定的意図を他の代替手段で実現すれば、そのる問題 (的症状) は消える (NLP の「6 ステップ リフレーミング」)。
4) 「現実」 (すなわち「問題」) は外界にあって私たちの知覚経路を通じて知覚されるものではなく、むしろ瞬間から瞬間へと私たち自身が継続的に、積極的に構築するものである (ポール ウォツラウィックの「積極的構成主義」)。
5) 右下 (K) を見ていれば「問題」があるように思えるが、右上 (Vc) を見続けるとその問題はなくなる (NLP の眼球動作パターン)。
6) すべての哲学的考察 (すなわち、問題) は、4Ti (過去意識) にあり、4Te (現在意識) にはそれらは存在しない (バグワン シュリ ラジニーシの「ガチョウは外だ!」の禅考案)。
7) すべての問題は、クライアントが、今ここで、瞬間的に再生し続けている慣習的行動パターンである (最近のリチャード バンドラーの著)。
8) 観察者の立場が観察それ自体の結果に影響を与えてしまう (量子力学)。

さらに、私にとっては、すべての NLP テクニックは、上記の 1) から 7) までの認識論的観点 (= 左脳的知識) を血肉化 (= 右脳的知識化) するための手段であって、それ以外の何物でもないです。

さらに、我々の無意識は、現実と虚構を識別できないと言われているので、「過去からしか派生していない問題」を今現実に起こっていると錯誤することは、充分考えられます。

「本物の NLP ピア」が絶えず気をつけ続けるべきことは、自分が今問題だと認識しているとしたら、それは、実は、単に、自分がまだ処理しきれていない「unturned stones (裏返したままになっている石)」、すなわち「アンフィニッシュド ビジネス (未解決の問題)」に「足を取られ」、それによって、過去から来ている「問題のように見える」行動パターンが自分のコントロールできない形で、今ここの瞬間に起動しているだけにすぎないという事実であり、さらに、その事実を再認識できた際、彼または彼女がすべきことは、さらなる NLP テクニックの自己適用を通じて、「Leave no stones unturned (すべての石の裏をチェック)」できるよう切磋琢磨していくことだけですね。

作成 2024/2/5