以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「新編 新・これが本物の NLP だ!」第 117 号 (2017.8.2 刊) からの抜粋引用です。

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今回は、新編第 117 号です。今回は、以下のトピックがカバーされています。

1.ハラリ (『サピエンス』著者) 考 その二

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1.ハラリ (『サピエンス』著者) 考 その二

最近、本メルマガのある読者の方と『サピエンス』についてメール交信したので、内容を紹介させていただきたいと思いました。

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読者: メルマガで紹介されていた『サピエンス全史』を読もうと思って、購入しましたが、中々終わりません。途中まで行って進まない理由を、私なりに自己分析してみました。

多分、この全史は確かな歴史であり、間違ってはいないと思いますが、私にとっては、ちょっと唯物論的すぎるようです。人類の歴史に、神というか『創造主』の視点は不可欠と思うのですが、それが書かれていないので、ロマンがありません。「神話による社会の拡大」のところは、面白いです。

ただ、人間は生物学的に言うと、「造られてはいない」ということですが、そうかなあと思いました。生意気かと思いますが、そう考えるのは、ちょっと傲慢かと・・・

すみません、でも、もうちょっと読んでみますね。先生は、宗教とは一線を画して人類の進化を論じておられるので、失礼かとは思いますが、以上が正直な感想です。

北岡: 「メルマガで紹介されていた『サピエンス全史』を読もうと思って、購入しましたが、中々終わりません。」

についてですが、特に、右も左も関係のない、「常に自分自身の既成概念から抜け出て、自分自身の意識を無限に拡張する」ことと「未知の新大陸の発見と開拓」(コロンブスのアメリカ大陸発見、アメリカ独立宣言、東海岸からカリフォルニアに向かった「ゴールドラッシュ」、奴隷解放、電球・自動車・飛行機・電話・ラジオ・テレビの発明、不幸な二つの世界大戦中の大量殺人兵器の開発と原爆投下、戦後の東西冷戦時の核の抑止力による世界の均衡、アポロ 11 号の月面着陸、「拡張された意識という新大陸」上での「カウンターカルチャー革命」、「サイバースペースという新大陸」上のインターネット革命、IT 革命、AI 革命、分子生物学 (DNA/遺伝子工学) 革命、等の近代西洋の歴史の流れ、のことです) を生み出してきている、私の言う「認識的拡張主義」についてのハラリの指摘には、正直、「天地がひっくり返るほど、度肝を抜いて」きています。

この上記の「未知の新大陸の発見と開拓」の詳細例すべてに、物の見事に「一本の筋」が通っていることに驚愕できるのは、私だけなのでしょうか (笑)?

また、この「発見と開拓」の「すべての例」を、日本人を含む全世界の人々は、毎日 24 時間、毎週 7 日間、毎月 30 日間、毎年 365 日間、「認識的拡張主義」の「抽象的な哲学」の「現象界の結果」としての自動車、飛行機、携帯、テレビ、インターネット、現代医療等を「中毒」のように、大いに「無意識的」に享受しまくってきていますが (享受していない人はいないと思います)、一つたりとも、実質的に「日本人の発見」はなく、このような発見が「意識的」にできるイノベータは今の体制の日本では絶対に生まれ得ない、という私の「認識論的結論」 (2001 年の帰国以前から、頭ではうすうすわかっていましたが、15 年の実際の日本生活で事実だという確信となり、そして最後に、ハラリの本が「極め付け」となった次第です) は、世界全体では「ごくごく当たり前の結論」なのに、なぜ国内では普遍性がないのか (あっても、見られるのは諦観だけで、「何かすべきだ」という機運が起こらないのか)、なぜ「『権威のない』 (笑) 私が『不都合な真実』を指摘しても完全黙殺されるのか」が、実は、正直、おもしろくて、おもしろくてたまりません (笑)。

この『サピエンス』を私の勧めた方は、翻訳で読んだのですが、もしかしたら、日本語の訳で、読みづらくなっている可能性はあると思います。英語は極めて明快です。

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以上が、読者の方とのメール交信の一部抜粋内容ですが、以下、追加コメントを記します。

1) 何度かメルマガで示唆してきているとは思いますが、1492 年のコロンブスのアメリカ大陸発見以来、現代の「サイバースペースという新大陸」上のインターネット革命、IT 革命、AI 革命まで、5 世紀以上にわたって、綿々と、継続的に、終わりなき一連の「未知の新大陸の発見と開拓」を可能にさせ続けてきている「驚異」としか形容不可能に思われる歴史的事実の裏には、「認識的拡張主義」という「一本の筋」がみごとに通ってきているというハラリの主張には、改めて、脱帽する以外に何もできません。

ハラリは、西洋帝国主義・資本主義の「右」寄りの立場にいて、かなりバイアスがあることは否めませんが、現時点において、共産主義・社会主義が実質上地球上から駆逐され、アフリカのサバンナにいる人々でさえ、昨今は、車と携帯とインターネットは生活必需品になっているだろう、という意味において、西洋帝国主義・資本主義が全世界の覇権を握っている事実は、もはや誰も否定できないと思いますし、ハラリ以上の大局的歴史観を全世界に対して提示できないことは、正直、悔しいですが (実は、裏の「隠秘学的人間意識の歴史」についてなら、彼以上のものを世界に提示できるという自負がいまだにありますが (笑))、彼以上の歴史研究に基づいた主張ができない以上、「脱帽」しかありません。「みごと」としか形容不能です!

2) ということで、ハラリの『サピエンス』についての私の書評に、以下のように書きましたが、

「ちなみに、近代ヨーロッパ帝国がこぞって、『認識的拡張主義』に基づいて新天地を求めた一方で、アジアの諸帝国は、そうしようと思ったらできたのに実際にはしなかったことを如実に示す資料として、中国明朝の鄭和の宝船とコロンブスの船の規模を比較したイラストが以下のページにあります。

http://erenow.com/common/sapiensbriefhistory/sapiensbriefhistory.files/image055.jpg 」

このイラストは、近代アジア帝国主義国は、「同じ (ピザの) パイの大きさを広げる」 (隣国を侵略・征服する) ことしかできなかった一方で、近代ヨーロッパ帝国は、「まったく別のパイを見つける」 (まったく異次元の「未知の新大陸」を発見・開拓する) 「量子的飛躍」の思考法と行動を (己の命を懸けて)「実際に」取れた、という決定的な違いを如実に表しています。

以上を踏まえて、私は、近代ヨーロッパ帝国と日本を含む近代アジア帝国主義国の違いは、以下の二点と結論づけています。

i) 近代ヨーロッパ帝国は「認識的拡張主義国」である一方で、近代アジア帝国主義国は「非認識的拡張主義国」である。
ii) 近代ヨーロッパ帝国は、(15 世紀だけでなく、20 世紀以降も、60 年代のヒッピーの「拡張された意識という新大陸」およびまさしく今現在進行形中の「サイバースペースという新大陸」の発見と開拓に象徴されているように) 「意識の拡張国」である一方で、近代アジア帝国主義国は「意識の停滞国」である。

私は、以上の (ハラリという「トラの威を借りた」 (笑)) 私の主張は、誰も否定できないと思っていますが、ただ、「お前は『西洋かぶれ』だ、『西洋のスパイ』だ!」といった批判が出てくることも承知しています (笑)。

しかしながら、実のところは、私は、「西洋至上主義者」ではなく (驚)、自分の生まれた国の人々が、世界から「正当な評価」を受け、世界に対して世界が納得するような形で、自国の文化を発信していけるようになることを、心から「ナイーブに」願っている人間です (笑)。

(そうでないと、最近改めてちゃんと見てみて痛く感動した、ジョージ オーウェル原作の映画『1984 年』の、まったくの独裁全体主義の国で、国を転覆する地下組織の主張に共鳴する主人公のように、まったく周りから「真意を理解されない」まま 15 年間も国内で孤立無援の形で、(拝金主義活動ではなく) 純粋な、「原理主義的」な「啓蒙活動」を継続できてきているはずはないです。)

ただ、「日本人が今後『世界覇権』を取る」ためには、一つだけ条件があって、残念ながら、それは、西洋と同じ認識論的立場に立つ、つまり、認識的拡張主義者になる、ことです。私は、それ以外に、道はない、と結論づけています。

(ちなみに、正直なところ、私は、十代の頃からハラリの歴史書を読むまで何十年間も、自分は「左翼の人間」だ、と信じて疑ったことはなかったのですが、ハラリを通じて、認識的拡張主義には、右も左もなく、あるのは「自分の信じていることに、自己責任において、自分の命を懸けられるかどうか」だけだ、ということがわかってしまった次第です。たしかに、近代帝国主義者のコロンブスも、第二次世界大戦末期の日本の神風特攻隊も、60 年代の超左翼のヒッピーも、現在の「サイバースペース革命」時代において、自分のビジョンを信じ切って、全世界を動かしてしまうような未曾有でイノベイティブなアイデアを、倒産の恐怖にもいっさいめげず、「実際に具現化」してしまえるシリコンバレー系のベンチャー起業の創始者も、すべて、例外なく、右も左も関係のない、「ガッツをもって、自分の人生を生ききった人々」だと定義することができるように思えます!)

私は、あくまでも、この「認識的拡張主義者になる必要がある」という唯一の条件を、日本の方々に、「日本人であることを捨てろ!」の意味合いで言っているのではなく、「東洋的思考法 (『非認識的拡張主義性』) と西洋的思考法 (『認識的拡張主義性』) を『止揚統合』した (すなわち、相手の懐の内を理解した) 上で、欧米人をギャフンと言わせろ!」の意味で言っています。

実は、第二次世界大戦以降、日本人は戦後 GHQ 体制によって完全に骨抜きされ、「去勢」されてしまっている事実は、現時点では「タブー」となっているようですが、なぜアメリカが「ピカドン」を二つも落として、日本人をここまで「精神的に壊滅」させる必要があったかというと、もちろん、それは、戦時中、神風特攻隊を含む (「自分のためにではなく、人のために命を懸ける」ことができる)「日本人の底力」に、(失禁するくらい!) 驚愕し、恐怖 (畏怖、と言っても間違いではないと思っていますが) を覚えたからに他ならないです。

私は、「東洋的非認識的拡張主義性」と「西洋的認識的拡張主義性』を止揚統合した「後」に表現される 「日本人の底力」こそが、真の日本人の「大和魂」の表現だ、と信じています。今のままの「井の中の蛙」の「自己陶酔型」の「大和魂」の表現では、このグローバリゼーションの世界共同体の中では、もはや誰からも相手にされなくなっています。

その一方で、実は、私は、「自分のためにではなく、人のために命を懸ける」ことができることこそが「『究極』の形の認識的拡張主義」ではないかと内々に思っているところもあり、だからこそ、戦後 GHQ 体制以降表現をする手立てを失わされ、それ以降いっさい表現しきれていないままできている潜在的な「日本人の底力」を、(東洋人が西洋人を超えられる「可能性がある」、という意味において) 実は高く評価できる立場にいます。

(ちなみに、考えてみると、「『自分のためにではなく、人のために命を懸ける』」ことができる『究極の形の認識的拡張主義』」は、もしかしたら、近代ヨーロッパ帝国に見られないだけでなく、他の近代アジア帝国にも散見されない、日本人に固有な潜在的特徴でないかとさえも、思えます。もしかりにこの私の直感が正しいとしたら、その源泉は、二百数十年間の鎖国を解いた 1868 年の明治維新から 1945 年の敗戦までの日本の文化・政治体制および天皇制にあるようにも思えますが、このことについては、今後の私の研究課題としたいです。)

ということで、2001 年の帰国以来、15 年間も、それ以前の英語発信をあえて「封印」して、日本語だけで活動してきていましたが、最近、全世界と、英語もある程度できる (潜在的な) 「国際的な日本人イノベータ」を対象にした「英語での世界発信拠点」としての英語のブログを立ち上げました (特に、ここではこのサイトの情報提供はしません (笑)。また、私は、本来不器用なので (笑)、過去 15 年間日本語に専念したときは英語をほとんどいっさい使わなかったように、今後英語オンリーになる可能性が強いです (笑))。

ちなみに、私は、ハラリの『サピエンス』についての私の書評で以下のように書きましが、

「現時点で、インターネットの英語文献は、自動翻訳でも読めますが、通常、頭の痛い日本語文しか生まれてこないことは、誰でも知っています (笑)。私は、今後どれだけ AI が発達しても、『完全自動翻訳』は不可能だと思っていて、その意味で、「いつか、努力しなくても英語の翻訳が読めるようになる」という『希望的観測的な「他力本願」』は捨てた方がいいと思います (笑)。[中略]

なぜ私が『完全自動翻訳』は不可能だと思うのかの根拠は、[中略] 日本語の文章のある要素が『統語・構文』的にどういう位置を占めているか、についての緻密な徹底的分析は、無数のデータを集めて『帰納法的』な解析をする、いわゆる『ビッグデータ解析手法』がどれだけ発達しても、もともと、とうてい不可能だからです。」

私の英語の新サイトを Google 翻訳にかけてみたところ、昨今の「ビッグデータ解析」は以前と比べてかなり進んでいるようで、たしかに、新サイトにあるような比較的「短文」の英語文なら、(過去のビッグデータにすでに参照機構が存在しているので) 完璧な、非常に自然な日本語翻訳になるようです。

ただ、「それで充分だ」と思うのが、残念ながら、自分の学習の努力を怠ってしまう「非認識的拡張主義者」の「悪しき業」であって (笑)、認識的拡張主義的視点をもっている私から言わせると、(「ディープラーニング」を含む、と私は現時点では考えています) 「ビッグデータ解析」は、どこまでいっても、「鸚鵡の反復作業」の枠を超えることができず、かりに「完璧もどき」は達成可能だとしても、絶対に純粋にクリエイティブな翻訳は無理だと思っています。なぜならば、神から人間に与えられた「唯一の自由」というものは、「常に既存のボックスから超えた未知の領域に抜け出る『メタの視点』である」と私は考えていて、この視点は、人間が作った AI は、本質的に、内在的に、もてないからです。

私は、「神が作った人間は神を超え『うる』が、人間が作った人工知能は人間、いわんや神を超えられない」という立場を堅持してきています。

(さらに、語弊を恐れずに言うと、私の英語の新ブログ サイトは、Google 翻訳を通じて、「ある程度」字面は、日本語マインドで読めることは否定できませんが、裏にある「生きた哲学」は、実際に英語ができて、実際に西洋文化を知らないと、体感覚的に理解できない、のは当然と言えます。)

本メルマガの内容はいかがでしたでしょうか? 北岡の、認識的拡張主義的傾向がますます顕著になりつつある新しい方向性に興味のある方は、個人セッションその他のワーク・教材に触れられることをお勧めします。

作成 2023/2/25