最新情報: 以下のページに「北岡 NLP 用語解説集」が掲載されています。

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以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 これが本物の NLP だ!」第 59 号 (2006.9.29 刊) からの抜粋引用です。

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つい二日前に本メルマガの第 58 号を発行しましたが、その内容は自分としても非常に重要だと思い、また読者から即座のフィードバックもいただきましたので、変則ですが、第 59 号を「緊急発行」したいと思いました。

本号の内容は、第 58 号の内容と対になっています。


1. モデリングとしての「守破離」の方法

最近私は、「道を極めようとするときの成長過程を示した概念」として茶道で使われる「守破離 (しゅはり)」という言葉に出会いました。この言葉は、私は学習としてのモデリングの真髄をみごとに言い当てていると思いますし、私自身の語学、コンピュータ、NLP の学習 (ところでこの三つの領域は、前号私が言及した「1) 外国語 (英語)、2) インターネット、3) NLP の三大重要ツール」と対応しています) において基盤とした学習方法論そのものです。

すなわち、「守」とは、師の教えを守りながらひたすら基本を身につけることです。このことは、私が本メルマガおよび私のワークでいつも強調している「数少ない一定数の語学の規則、コンピュータ操作のし方、NLP の基本的モデルの徹底的、機械的な学習」と完全対応しています。

「破」とは完全習得した師の教えを基礎として自分の個性を活かし、自分自身のものを創造する段階です。

私の NLP 学習の場合について語ると、80 年代後半から NLP 四天王の実際のワークをただただ観察し続けて自己同化し (「守」)、その後 7 年間英国の自宅にこもって毎日 10 個程度の「個人編集テクニック」を実践し続け (これも「守」です)、その後、無意識に任せてまったく「我流」の教えをしてきています (「破」)。(ちなみに、この我流性が、私のワークに触れる「玄人」のトレーナーには非常に新鮮に (そして「神秘的に」) 写るようです。)

「離」とは、自由自在に行動しながら、今までの師の教えを超越していく段階です。これについては、私は、「自分自身の師匠を超えることのできない弟子は『できの悪い弟子』である」と言ったとされるレオナルド ダヴィンチの立場を引用することがあります。

以上の普遍的な (そして私の理解するところ唯一妥当な) モデリングの方法論について一言付言すると、先人をモデリングしようとしているいろいろな (特に若い) 人々に私は出会ってきていますが、そこで私が一番驚くのは、守破離の「守」の段階で、そのモデリング対象のこの部分は受け入れられるが、この他の部分は受け入れられないのでモデリング過程の一部には入れたいと思わない、といったいわゆる「主観的な」判断をしている場合がよくあることです。

私にとっては、これは、コンピュータ操作の学習時に、アルファベット配列のキーボードのこれらのキーの配置は受け入れるが、別の一部の特定のキーの配置は気に入らないので、その気に入らないキーは押さないと決定するのと同じくらい「愚行」に思えます (コンピュータ操作を覚えるときにそのような主観的な好き嫌いに固執したらコンピュータ操作そのものは初めから不可能です)。同じように、「守」の段階で師をモデリングする場合は、その一部ではなく、全体を受け入れることでしか、自分の中での真の意味での「新しい OS 作り」は不可能に思えます。

ただここで一点興味深いことがあります。私は、この「守」段階のモデリングは「部分的モデリング」ではなく「全面的モデリング」であるべきだとずっと思ってきていましたが、昨年私がジョン グリンダー氏を日本に招聘したとき、私が全面的モデリングであると思っていた、グリンダーとバンドラーがミルトン H エリクソンをモデリングしたときに使った「DTI (深いトランス自己同一化) モデリング」について以下のことが判明しました。(この引用は、本メルマガ第 30 号からの引用です。)

「[グリンダー氏の 2005 年 3 月東京で開催されたビジネス向け一日ワークショップでは]、非常に興味深いモデリングに関する質疑応答が繰り返されましたが、一点、グリンダー氏が『私がミルトン H. エリクソン博士をモデリングしたとき、同博士のすべての局面をモデリングしたわけではなく、(意識的に選んだ) 限定された局面だけをモデリングしました』 と説明された点に、私は非常に興味を覚えました。

これは、私が常々主張してきている『DTI (深いトランス自己同一化)』による『自分のフィルターをすべて棚上げした全面的明け渡しを含蓄した、無意識的モデリング』とは一見矛盾するので、ワークショップ後に、グリンダー氏に『このような「選別的モデリング」は、バンドラー氏の方はどうだったのですか?』と質問したところ、『バンドラーも、同様に、エリクソンの限定された局面だけをモデリングした』という答えをいただきました。

この答えは、確かに、私にとっては意外な答えでしたが、しかし、グリンダー氏によると、初めからモデリングの対象から排除した局面は、たとえば、エリクソン博士の家族や女性との関係等だった、ということなので、内面的精神状態というよりは対外的人間関係を意味しているようなので、私が主張してきていることは、原則的には妥当性を保ち続けることができるようにも思えます。」

この「全面的モデリングであるべきはずの DTI モデリングも実は部分的モデリングではないか?」という点については、現在私は、「無意識のホーリスティックな知恵に依存して、(意識ではなく) 無意識が受け入れたくないと思う局面を『フィルターアウト (選別的排除)』する」ことは、(意識的な) 全面的モデリングの強化にはなれ、阻害することはないのではないか、という考えに傾いています。


2. 無意識とのコミュニケーション

先週行われた日本 NLP 学院の大阪プラクティショナー コース モジュールでは、「6 ステップ リフレーミング」の第二段階での「無意識の、信頼できる自発的シグナル体系の確立」では、通常行なわれる観念動作シグナルを使った無意識とのコミュニケーションの確立のかわりに、NLP ユニバーシティの空間ソーティングを使った「まるで無意識とコミュニケートしているように行動する」代替法が使われました。ただ、演習グループによっては、時間があまれば古典的な無意識的シグナルによる無意識とのコミュニケーションの確立も OK ということにしました。

この演習のあと、ある参加者から「私には自分の中に無意識があるとは思えない」というコメントをいただきました。私は、「あなたは、呼吸、消化、血液循環、歩行の際、それに実は、言語を話す場合も、すべて意識的に行っていますか? それらはほぼすべてあなたの無意識が行っているのですよ」とこの方に伝えました。

確かに無意識の自発的な観念動作シグナルを確立して、自分の中に自立した「人格」があることを知って驚くことは、自分の中の無意識の存在の適切な説得材料とはなりますが、このようなシグナルが確立されるかどうかとは無関係に、無意識の機能は否定しようのない事実だと思います。

このことについては、私は、「入力 –> ブラックボックス –> 出力」の図式として簡略化しています。

この「入力」は知覚経路から自分の中に入ってくる知覚入力で、「ブラックボックス」は自分の中で起こっている自分が意識化していること以外のものすべてのことで、「出力」は、入力がその無意識によって処理された後に自分の意識にのぼる思考および行動のことです。

興味深いのは、入力の源である外界を、認識論者たちは「神秘」と呼ぶ傾向にあるようですが、この入力を処理している無意識も同様に「神秘」と呼びうる点です。このことについては、本メルマガの第25号で以下のように書かせていただいています。

「[私が過去に英国で受けたセッションの NLP セラピスト] は、以下のようなイラストを画いて、私に次のように説明しました。

『人間の経験は、「経験のマトリックス」と呼ばれる無意識的な機構からなりたっていて、私たちは、この中で何が起こっているかはいっさいわかりません。ただ、一瞬一瞬において、このマトリックスの中に入力されるデータとそこから出てくる出力データが継続的に発生しています。そして、ある時点で特定のデータが入力されても、そのデータがマトリックスで処理されて、いつ出力データとなって出てくるかは誰にもわかりません。たとえば、今日、道路を渡っている老婆を助けてあげた後、その老婆が 10 年後に私にお礼のお金を送ってくる場合、表面的には、その二つのイベントには関連性はないように見えますが、実は、このマトリックスを経て、時間をかけて一番目のイベントの因果関係の結果として二番目のイベントが発生しているのです。』」

「経験のマトリックス」イラスト

この「経験のマットリックス」は、自分の中の無意識と対応しますが、実は、ベイツン的に言うと、人間はその固体がすべてではなく、心身論理レベルの「環境」、「行動」、「能力」、「信念」、「アイデンティティ」の各レベルで無数の「ループ」 (『個人的天才になるための必要条件』では「回路の弧」等と形容されています) を描いて外界とやり取りしながら複雑に機能している有機体なので、この無意識 (の神秘) と外界の宇宙全体 (の神秘) との垣根は非常に曖昧化されていると、私は考えています。


3. すべては何か他のことの例である (Everything is an example of something else)

「すべては何か他のことの例である」は、グリンダー氏の使われた表現ですが、この意味合いは非常に深いと思います。

これを本メルマガの前号で指摘した「高次の肯定的意図&中心視野 vs 周辺視野」の観点から見ると、「(中心視野に関連した) 問題の症状と (周辺視野に関連した) 無数の代替行動は、ともに、高次の肯定的意図の例である」ということになります。

この図式は、さらには、先週行われた大阪プラクティショナー コース モジュールでのワークのトピックとなった「アーケタイプ」ともつながっています。

すなわち、アーケタイプはいわば、この図式の肯定的意図のようなものであって、それと自己同一化して周辺視野でチャンクダウンすれば、ありとあらゆる現実の現象上の形態をカバーできることがわかります。

コース参加者の方で、「コース資料にあるこの一つ一つのアーケタイプの説明が足りないので、もっと説明してほしいです」と言われた人がいて、私はそれに対して「アーケタイプとは一つを知って無数のものを理解することなので、各アーケタイプの説明は逆に短いものであるべきであって、複雑な解釈はまったく各人に任されています」と答えましたが、その意味合いはここにあります。

さらに、この「一つを知って無数のものを理解する」メカニズムによって、私は、たとえば、語学学習を飛躍的に加速化してきました。

たとえば、現在企画中の私の英語学習本の中では、辞書の引き方も言及されますが、「run」という単語を辞書で引いて

「run three miles 3 マイル走る」

という言い回しがある場合、この三つの単語を「アーケタイプ的に見ない英語学習困難者」は単に三つのことしか学べないのでしょうが、学習のコツを捕まえている人にとっては、この言い回しはほぼ無数のことを教えてくれているので、「リソースの宝庫」と見ることができます。

つまり、現象界 (表層構造) に捉われず、「この (アーケタイプとしての) 言い回しは何か他の例である」ということが理解できる人は、とっさに、「run」は「walk」、「go」、「move」、「advance」等、非常に多くの単語と互換可能であり、「three」のかわりにはありとあらゆる無限の数の数字を入れることが可能であり、「miles」のかわりに「mm」、「cm」、「m」、「km」、「yards」、「shakus (尺)」、「ris (里)」等、一定数の単語を互換させることができることを理解します。

ということは、その人は、この言い回しだけで (二番目の数字は無限の変数があるので) 文字通り、誰も否定できない形で、「無限の数の表現」をすでに学習したことになります。(私は、個人的には、これを「奇跡」と見なします。)

私は、中学、高校時代に、いくら学習に時間をかけても凡才であることも、まったく時間をかけないのに天才であることもあって、その頭の中のメカニズムの違いを知りたいと切望していましたが、その答えがここにあると主張したいと思っています。

作成: 2022/1/12